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[コメント] 殯の森(2007/日=仏)

抽象の森へ(レビューはラストに言及)
グラント・リー・バッファロー

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







「こうせなあかんってことないから」、渡辺真起子演じる先輩介護士の言葉は、日々厳格な自己管理を強要される現代人に、一陣の涼しい風を送り込むような束の間の休息の言葉だ。しかし、本作で河瀬直美は、この言葉を導き手に人間の心の奥深くに沈降していく。

「こうしないといけない」という気持ちが自制心を生み出しているとしたら、では、その自制心を取り払うとどうなるか。「こうしないといけない」ことがなくなったとき、ふだんしまい込んだ本能が目覚める。芸術作品において、本能の赴くままの行動がときに美しく見えることがある。茶畑で走り回る姿や盗んだ西瓜にかじりつくところは、まさに人の本能が剥き出しになった姿であり、それゆえに魅力的に映る。トニー・ガトリフの『愛より強い旅』にも顕著だし、河瀬直美自身も過去作の『火垂』や『沙羅双樹』でこうした剥き出しの人間が奏でる生命の息吹を映し出していた。本作でのこれらのシーンは、森に入る前の周到な準備体操として位置づけられる。

人の手が(あまり)加えられていない森の中に、剥き出しになった人間が入っていく。本作の前年にカンヌ国際映画祭でグランプリをとったブリュノ・デュモンによる『フランドル』では、小さな村から戦場に舞台が移り、剥き出しになった人間が戦場で生存本能に従い残忍な行為を重ねていく。女は原初の森を彷徨ううちに「悲しみを抑えて気丈に生きていかねばならない」「この老人の行動を抑えこんで施設に帰らせなければならない」といった、「こうしないといけない」という思いを次第に剥ぎ取られていく。『フランドル』における戦場が、中東のようだがはっきりとはどこだかわからない抽象的な場所であったように、一体どこをどう歩いているのか位置関係が不明確な森は地図とは無縁な、つまり極めて抽象的な存在として描かれている。(出口のない砂漠を執拗に描いたガス・ヴァン・サントの『ジェリー』と本作の後半部分は似ている。)抽象の森の中で、二人は介護者と被介護者でも、妻を亡くした夫と子を亡くした親でもなく、かといって男と女でもなく、やがて大木に向かう巡礼者になる。今までの河瀬作品にはあまり感じなかった戦略性を感じた。そうした戦略性や、ヘリコプター音(『グッドフェローズ』『家族ゲーム』でも有効に使われていた「現代の」効果音)によって、急に外部を登場させてこの「抽象の森」を相対化して不穏な空気を感じさせるところとか、そのあたりの描写がカンヌに評価されたのかなと思った。

しかし、「介護者と被介護者でも、妻を亡くした夫と子を亡くした親でもなく、かといって男と女でもなく」と書いたが、このあたりを消しきれていない(抽象化しきれていない)ところが中途半端な印象を与えた。ロングショットによって生身の妻の全身を登場させたり、急に木が倒れたり増水したり、突然上半身を脱がせた強引な肌の触れ合いをおこなわせたり、日記らしきものが途中から急にアラビア数字になったり、これらの仕掛けがすんでのところで失敗しているように感じた。最後のヘリコプター音を入れる前から、これらのシーンがいちいち森の中の特異な世界から現実に引き戻す役割を果たしてしまい、そこを不満に感じた。

(評価:★3)

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