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[コメント] 十二人の怒れる男(1957/米)

私も「怒れる十三人目」としてこのなかに参加したいような参加したくないような。(レビューは作品後半部分の展開に言及)
グラント・リー・バッファロー

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







いやーこれは面白い。他の方も触れているが、話の95%は陪審員室のみで展開される。狭い部屋の中を十二人の男たちが動き回る動き回る、カメラもアップや引き、アングルなどを変え、限定された設定にもかかわらず多彩な画作りに成功している。あの空間の中にカメラや照明などスタッフがいたとは到底思えない。(それぞれの立ち位置とか計算するのたいへんだったろーな、とか余計な心配などをしてみる、順撮りなのか?)

さらに秀逸な脚本。登場人物紹介を拙あらすじで書いていて思ったのだが、十二人の無駄話も各自のキャラクター設計だけではなく、本筋の伏線になっていて、実際には全然「無駄」ではない(例えば3番の息子の話や、広告業の12番の実の乏しいマーケティング話とか)。その意味では隙の少ない脚本である。

そして十二人の男たちが真剣に議論をする姿、たまらなくダンディーである。最後にスーツを着るところなんかも颯爽としている。私も、ときに立ちあがって窓際を見つめたりしながら、このなかで真剣に話し合いたいと不覚にも思ってしまう。8番のヘンリー・フォンダが誰かが賛同することに賭けて、自分以外の11人に投票してもらうくだりの駆け引きなどは観てて興奮をおぼえた。

以上がコメントで言うところの「参加したい」部分にあたる。

以下、「参加したくない」部分について記す。

ドド氏御指摘のとおり、この話、前半部分は5点に値する作品である。しかし、後半部分は少し雲行きが怪しくなっている。このあたりから、フォンダの言葉の説得力以上に、「無罪に風が吹いている」という空気が投票変更決定要因になっている。

とりわけ9人目(一度有罪に変えた12番)から11人目までが無罪に変わるとき、フォンダが一人一人に肩を置いて態度を迫り、他の「無罪派」の視線をその人に集めさせる。これは現代的視点から見ると、WaitDestiny氏御指摘の「イジメフォーメーション」に映る。あれが「民主的な」話し合いの帰結とは思い難い。

とはいえ、後半部分も民主主義の一面を映し出している。そしてそれは民主主義の最大の弱点ではないかと思う。一概な決めつけはいけないとわかりつつ、どう考えても法律の専門家よりも一般の陪審員のほうが感情やその場の空気に流されやすい性質をもつことは否定できないと思う。(もちろん、法律の専門家が感情やその場の空気にまったく流されないという意味ではない。そうだとしても私の見解に対する反論はいくらでも成立しうると思う。)

そもそも私は現代社会の場において陪審制度はおかしいと思っている。社会の規模が飛躍的に大きくなり、立法や行政が市民の生活の場から遠のいてしまい、それを情報公開などによって再び市民の側に近づけていくのは意義深いことであると思う。しかし同様の感覚で「人を裁く」部分にあたる司法を市民に引き寄せるのはいかがなものか。もちろん陪審制度は裁判のあくまで一部にかかわるもので、量刑などは法律家の裁判官が決めるのだが、それにしても市民が司法に参加するのは、本作で言えば冒頭のフォンダがいなければあっさりと有罪評決をくだしてしまう部分や、後半の雰囲気に流されてしまう部分からもわかるとおり(これらの過程は十分に現実にもありうる)、一つの危惧をおぼえざるをえない。

民主主義にも様々な類型があり(陪審制度という発想とは結びつかない民主主義モデルも存在するという意味で)、一括りにして論じるのは愚かとわかりつつも、フランスの皇帝とその后を公開ギロチン台の前に立たせたのは彼らの首が刎ねられるのを観にきた市民及び彼らの視線によるもの、ということを私は指摘しておきたい。これは司法とは関係ないが、opponent氏御指摘の通り(民主主義の要件の(1)と(3)がおろそかにされたとき)、ヒトラーは「民主的な」選挙の手続きを経て、元首に選ばれているのだ。

民主主義は衆愚政治、多数の専制に陥ってしまう可能性を秘めていることは承知のとおりで、その処方箋としてさらなる民主主義の徹底化(ラディカル・デモクラシー)や市民的な徳を養う訓練を施す(共和思想)など様々な見解が政治哲学の世界(それだけではなく政治文化のフィールド全体で)では繰り広げられている。私も別に民主主義を否定しているわけではない。ただその弊害、とりわけ雰囲気に流されやすい部分、この部分の危険性を素早くキャッチできるように感性だけは磨いておきたいかと思う。その意味でも本作は非常に勉強になった。こんな皮肉な見方をすること自体、少数派意見なのかもしれない、しかしだからこそ私は3番もけっしてバカにはできないと思う。

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*注記及び随想

・むろん本作での無罪評決は「人の命を救うこと」に繋がるわけで、その行為自体に異議を挟んでいるわけではない。疑問に思ったのはあくまで、雰囲気に流されてしまう「過程」についてである。

・アメリカの陪審制度は、独立前からの小共同体での直接民主制に由来する部分がある。いくら現代的な視点でおかしいと一方的に言っても、他方でタウン・ミーティングなど新しい自由な社会構築を目指したアメリカに根づく伝統の存在を忘れてはいけない。(禁酒法なども当時の社会改革運動の流れを踏まえていないと、なかなか理解できない。)

・フランス革命自体が民主的かどうか疑わしい点で、私の挙げた例は説得力にかけるかもしれない。また近代思想史では、王の身体を衆人の目の前にさらすのは、近代の前段階に見られる現象という説明もある。

・私も2番か11番タイプと見せかけて、おそらくは12番タイプだろう。

・名前を挙げた方々には申し訳ありません。ついつい深くうなずいてしまい、かような仕儀をしでかしました。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (4 人)Orpheus けにろん[*] Amandla![*] WaitDestiny[*]

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