コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] ボウリング・フォー・コロンバイン(2002/カナダ=米)

「殺人蜂」が襲ってくるアメリカの郊外。
グラント・リー・バッファロー

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







本作の上映終了後、劇場のすぐ外で入手した一枚のビラ。反戦集会の告知についてのもので、明らかに本作を観終わった人をターゲットにしたものだった。なぜ?本作と何の関係があるのか?最初本気で私にはその関連性がわからなかった。そういえばなんで他国の銃犯罪及び銃規制の問題を扱った作品などがこれほど大人気なのかもあまり考えていなかった。ビラをしばし見つめた後、この作品が現在の反米的な空気にかなう要素をもっていたことにようやく気づく(私が観たときはまだ開戦前で、SMAPの曲も売れていなかった)。朝日新聞などではアメリカを笑うという意味で反米ではなく「笑米」という言葉で紹介されていたが、それは底に愛があるゆえの「笑い」というよりも「嘲笑う」ニュアンスに近いという意味で、「反米」が少し変形しただけにすぎないだろう。

個人的にはあまり今の状況と本作を直接的には結びつけたくない。マイケル・ムーアが愛国者であり、アメリカの底に眠るものに深い信頼を寄せていることは、彼の著書や本作に少しでも触れればすぐにうかがい知ることができる。ムーアの愛国心と反戦もしくは反米感情(厳密に言えば、「反戦」と「反米」とが結びついているのも現在の状況)とが今回はリンクしているが、この時代状況でなかったらそうでなかったかもしれない(結びついてしまうのはその時代特有の力で、それ自体は軽視できないが…)。

本作が提示する視点は確かにわかりやすい。カナダのセキュリティとアメリカのセキュリティ。黒人の扱われ方と白人の扱われ方。殺人事件での見える暴力と企業の汚職などでの見えざる暴力。大統領の影響力とマリリン・マンソンの影響力。わかりやすい対比ゆえに、わかりにくい今のアメリカの状況がすっと頭の中に入ってくる。ただここで注意しないといけないのは、わかりやすくなっているぶんわかりにくい部分がより見えにくくしまっていること。実際にはブレインがいるのかどうかは知らないが、マイケル・ムーアは自分一人の直感に頼りながら突き進んでいるとの印象を受ける。思想や立場は異なるが、彼のとる戦法や著書などでの言葉の繰り出し方は小林よしのりとイメージがダブる部分が多い。どちらも時代が後押ししている間は(一見)閉塞をぶち破り小気味よく見えるが、周りを視野に入れず独走しているがゆえに、いつそれが暴走に転じてしまうか、そういった危うさが見え隠れし、ひやひやする。

いろいろ批判や疑問は成立しうるのだろうが、私には一点大きな疑問点が浮かんだ。バリー・グラスナーの『恐怖の文化』における言説を頼りに、とかく人はとっつきのよいイメージにばかり注目し、そうした需要を過剰な形で満たすマスコミを通して人は歪んだステレオタイプを内面化させていくという説が紹介される。しかし、この作品自体もとっつきのよい音楽や映像を使用して、わかりやすいイメージで訴えかける点は同じなのである。それに気づいていないのか、それともそうしたわかりやすいイメージをもって逆洗脳しないと人に訴えかけることはできないと考えているのか、テレビでの仕事を通して染みついてしまった悪癖なのか、いずれにしろそのあたりを説明しない姿勢に不誠実さを感じてしまう。全体的にゲーム感覚が漂うなかで、唯一ドキュメンタリーの持ち得る誠実な視点を感じさせたのは、チャールストン・ヘストンとのインタビューが不燃焼なまま終わった後で、少女の遺影をそっと立て掛けようとしたムーアの背中にであった(その行為自体はとても褒められたものではないが)。

と、ここまでの書き方だと否定的に捉えているように見えるが、私は本作を結構気にいっている。それも、本作がアメリカの郊外(サバービア)を鋭く映し出した作品の一つと感じたからである。東京のベッドタウンで二十数年暮らしてきた私にとって、郊外は解決すべきものというよりは物心ついたときから既に存在した原風景のようなものである。公式ホームページで、サバービアはアメリカ最後のフロンティアとあったが、実際郊外の風景は近代社会が最後に生み落とした問題多き「子」なのかもしれない。『ブレードランナー』に映し出された退廃した近未来の風景よりも、ともすると退廃の度を深めているとも言える郊外の風景。どこに行っても似たような作りをした家の、似たような見栄えの扉を揃って厳重に閉めているうちに、自然と他とのつながりが薄くなってしまった個人は、見えない何かに怯える。殺人蜂の話などは、そうした「見えない恐怖」の一部が顕在化したものなのだろう。実際にそうしたものは永遠にその全貌を見せることはないのかもしれない、なぜならそれは実体をもたない幽霊のようなものだから。しかし、その見えないものに怯えた者が、そこで何らかのリアクションをとったとき、見えない恐怖はいびつな形で実体化する。

意識的にサバービアを自作品の舞台として選ぶトッド・ソロンズの『ストーリーテリング』は、フィクションとノンフィクションが交錯するさまを映し出した。本作では、殺人蜂というフィクションが、マスコミを通して人びとの恐怖を煽り何らかの行動を起こさせたとき、それがノンフィクションつまり現実(実話)に変化していく過程が示される。見えない恐怖をなんとか自分の理解できる形、「見える」形に飼い馴らそうとして銃武装し、結果的に恐怖を実体化させてしまう郊外の情景。本作ではそれをアメリカ固有の問題として捉えている。しかし、カナダでの若者へのインタビューが、このうえなく「郊外」を感じさせる「タコベル」の前でおこなわれていたりするのを見るにつけ、この地にも見えない恐怖はすでに伝播し、それが実体化するのも時間の問題のような気がした。「タコベル」こそないが日本にもそれはすでに訪れている。それに対する過剰な反応が銃問題として顕れるかどうかはわからないが。

私は基本的に「面白い」か「つまらない」かを基にして点数評価をおこなっているが、ドキュメンタリーを劇作品と同じような形で評価してよいものかどうかいつも迷っている。しかし本作について採点はさほど迷わなかった。全体を通すと、郊外を舞台にした一つのフィクションを観たような思いがしたからかもしれない。(★3.5)

*マリリン・マンソンの言っていることの中味自体は正論かもしれないが、自身でそれを言ってしまうとただの泣き言のようにも聞こえてくる。むしろ敢えて煽るようなことを言ったほうが江戸っ子ぽくて一貫しているような感じがするのだが、それが許されないほど状況は硬直しているのか。

(評価:★3)

投票

このコメントを気に入った人達 (14 人)おーい粗茶[*] torinoshield[*] 新町 華終 ぽんしゅう[*] moot[*] 町田[*] ゲロッパ[*] しなもん G31[*] ごう イライザー7 東京シャタデーナイト Kavalier tredair[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。