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[コメント] ウェルカム・トゥ・サラエボ(1997/英)

現代に於いてでしか描けない要素を含んだ戦争映画。♯追記あり
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







★4.5

開始直後に直感した通り非常によく出来た映画だ。コンパクトにまとめられているが、並の映画と比較して「深さ」が違う。戦争(系)映画は観る前にそれなりの覚悟が必要で肩透かしを食らうことも間々あるのだが、「ウェルカム・トゥ・サラエボ」は期待を裏切らなかった。あまりメジャーではないのはこの重さと地味さ故なのだろうか?

「戦争の狂気」を表現するのに延々とバトルシーンを展開する映画には辟易していた所だったのでとても新鮮な印象があった。確かにこの作品で前線の狂った兵士に見られるような「戦争の狂気」は前面に押し出されてはいない。

*向こう側とこちら側

極めて斜に構えた、ブラックな視点によるものだが、我々が現在もなお世界各地で行われている戦争に対する認識は「無関心」「どうでもいい」だと思う。

朝、新聞を読みテレビのニュースを見る。しかし正座して真剣にそうする人間など恐らく存在しないだろう。朝食の肴に、何もすることがないから、一般的知識収集のために、話のネタにする為にテレビを見ている。星新一の小説の中に、新聞を読むのは「どぎつい事件が載っているのを密かに期待しているため」というような文章があるが、実に的を射た指摘だと思う。

よほど悲惨な大事件でもない限り、朝のニュースが一日中自分に影響を与えていて、忘れられなかったことなどない。いちいち事件について考えたりはせず、大抵は見た途端に忘れる。「どこどこの県で祭りが行われた云々」のニュースと世界の悲惨なニュースの間に視聴者は殆ど差異を感じることはない。特に知りたくもないし、知っておくべきでもない。特に役にも立たないし人生に影響も与えない。その場限りだ。そんなことを考えていると、世界の悲惨な出来事は単なる娯楽でしかなくなってくる。

我々は知りたいのか?そして、知ってどうすればいいのか?

遠く離れた国の戦争のニュースを見たところで何をしたら良いか分らないし、どう対処も出来ない。実際に行動に移す人間などごくごく一握りだろう。

血みどろの現場に駆けつけるマスコミが禿鷹なら、彼らに提供された映像を喰らい、時にはネタにしてしまう視聴者もまた同様だ。少なくともここに救済はない。

この映画はどこまで行っても結局「こちら側」の視点から作られている。マスコミも命がけだが、いつ何時も自由に「地獄」を脱出可能な点で住民とは雲泥の差がある。映画の製作者もまた然りだ。だから傲慢だといってしまえばそれまでになる。

傲慢、といえば主人公の行為はそれ以外のなにものでもない。何しろ自分の一存次第で他人の命を左右できるのだ。勝手に同情して、勝手に救出しただけだ。更に広げていうのならば、主人公を含めた我々「こちら側」の人間は皆その「一存」を握った独裁者のような権力を所有しているだろう。彼らの生命を決定するのは敵軍のみならず、「こちら側」の人間もはっきり含まれている。

♯ただ、少なくともここでは「傲慢=悪」ではないことは明確にして考える必要性は補足しておく。

エミラも自分の命が「一存」によるものだと痛いほど分っているはずだ。エミラと主人公はどこまでいっても《命を助けられた者‐助けた者》の関係なのかもしれない。

それでもエミラはサラエボにいた時には獲得できなかった幸福を手にしたのは間違いないと思う。それがどんなにささやかな、多くの犠牲や悲しみを経験したとしても、だ。

ちなみに主人公がエミラを養子にすると決めてからの苦悩云々が完全に省略され、抜群に巧い演出だと思った次第。

私が高校生の頃、無政府状態のソマリアに行った人の話を偶然耳にしたのを思い出した。アフリカといえど、紛争開始以前には日本と大差ない社会の厳密なシステムが機能していてそれに従って人々は生活していたらしい。彼らは原始人のような生活をしていたわけではないと強調されていた。オリンピックが開催された、都市化された地域にも当然システムは存在していたはずだ。

現在、我々は程度の差こそあれ極めてデリケートな生活を送っていると思う。停電するだけで自分の生活は激変してしまうだろう。もし戦争や大地震が起こればプライバシーやらリズムやら重要視しているものは全て崩壊してしまう。贅沢な悩みのように思えるが、根源的にはサラエボの人間と変わらない。

何故なら彼らには彼らの生活の中で重要視していた要素があり、それらが見事に崩壊してしまったのだから。

‘Welcome to Sarajevo’の落書きは住民が書いた強烈な皮肉なのだろうか?「サラエボにようこそ。マスコミの皆さん、俺たちの惨状を世界中に発信して下さいませ。」ってことなのか?

テレビのニュースと同様に「ウェルカム・トゥ・サラエボ」の観客も大部分は具体的な行動を起こさないだろう。しかし、本作品には魂が込められ、人間が描かれている。単なる映像の羅列に過ぎないニュースとは決定的に異なる。ミサイルに破壊されるビルの無機質な映像が挿入されているが、その裏にある人間的な要素もまた描かれている。他人に薦めることはないだろうが、有名でなくとも是非観てほしい作品の一つではある。

私は今文章を書いている。もちろんこれによってサラエボの何かが好転するわけではない。所詮、全ては推測に過ぎない。戦時下の特殊な心理状態など体験していないから分らない。

ただ、書かずにはいられなかったのだ。

彼らに音楽がいつも降り注ぎますように。

***追記***

「現代に於いてでしか描けない要素」についての補足。

この映画を渦に例えるのなら、中心にあるのは主人公とエミラの接触だろう。同じサラエボという舞台にいながらにして、両者が背負うそれぞれの背景世界は天と地ほどの差がある。一方は、清潔な生活が可能で、地獄へ自由に出入りするいわば特権階級。もう一方は明日も知れない絶望的な人間。

この関係は非常に珍奇であるように思える。ただ、飽くまでも私が「現代」との比較対象に選んだ「過去」とは、一応太平洋戦争(直感的に決めてしまったが)であるが当時も記者や何やらが地獄へ派遣されていたのかもしれない。そして同情心から現地人を救出したのかもしれない。

過去の戦争でその「関係」が成就されていたと仮定しても、現代の「関係」とはやや異質のものだろう。というのも、主人公は変換装置だからだ。つまり悲劇を骨抜きにして地面を踏むように均し、テレビの、魂のない映像にへと見事に変容させてしまっている。

本作品は詳細に言及しているものの、マスメディアによる「変換」を非難する目的はないと思われる。が、主人公の行為は手放しで誉められる類のものではない。

テレビ放送開始50周年だとか世間で話題になっているが、情報の受信者の態度は次第に変化し、いつしか現代の様相(前述した無関心や娯楽化)に固定されたのだろう。もちろん我々が悲劇に対し全く感情を抱かない冷血漢なのではない。娯楽を求める視聴者に罪がないとは決して断言できないが、主人公は直に悲劇と接触していながら娯楽へと変換している。

主人公のこの背徳性(要はマスコミ行為の張本人が人を助けること)はマスメディアの発達した現代を前提にしているわけだ。そして「ウェルカム・トゥ・サラエボ」はマスメディアの存在が重要な役割を果していることは間違いないだろう。

と、ここまで書いてきて私が主人公に対し否定的かというとそうでもない。今まで観てきた戦争映画よりもずっと深く映画に見入ってしまった。部外者は部外者なりに最大限に真摯な態度で完成させられていると思う。前半のマスコミ描写で、映画を通して自分とサラエボとの関係を意識させられたので、後半の全てに思い入れが深くなってしまったのかもしれない。

(評価:★4)

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