コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 大地のうた(1955/インド)

 リアリズムによって現れる世界、それこそがこの国の「聖なるもの」
にくじゃが

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







…(らしい)。一人一人が生きる世界全体、それが大きな宇宙、「聖なるもの」である(らしい)。世界を動かすものは世界の外ではなく、なかにある、これがインド哲学(らしい)。

 インド最大宗教ヒンドゥー教、その「ヒンドゥー」の語義は「大地、土地」。これはギリシャ語のIndus,Indos(つまりインダス川)や、ペルシャ語のSindu(川)からきたらしい。「川」→「川辺」→「川辺の社会、人、風習」→「土地」となったらしい。強引だけど、まあいいさっと。

 インドの聖典のなかの話にこんなのがある。「太初において宇宙は実に水であった。水波のみであった。」

 この映画において非常に重要なモチーフのひとつは「水」であると思う。洗い清める水、飲み水、川の水、雨、雨、嵐、涙、などなど。水は人間生活において、なくてはならないもの(そりゃそうだ)である。洗濯、料理、水がなくては何にも出来ない。おばさんが最後にオプーの家にきたときに求めたのも水だった。人間が生きるための源となるもの、それが水である(ということにしておこう)。でも、水はただ恵み、というわけでもない。雨にあたったままでちゃんと始末しないと風邪や肺炎になって大変。また時には嵐となってオプーの家を襲う。そして涙は浄化の力を持つ。涙を流してお母さんは姉の死を受け入れる。

 太初のものが水ならば、新しい物とはそれ以外のものなのか。カースト制度が崩れかかって、貧乏バラモンが生まれる時代。電気が通っていない(オプーの家だけかも?)村の近くに蒸気機関車が走る時代。

 古くからの自然とその周りの移りゆく社会その両方が同時にあるところ、それが水辺であり、大地なのか。水辺の社会ありのまま。ガリガリのおばさん、よぼよぼの村の長老たち、骨張った牛や犬、か細いオプー。貧困をさらけ出し、貧乏バラモンなんていう社会の混乱の末端も映し出した。これが「インドの大地」のリアリティだとすると、この映画に収まっているのは「聖なるもの」、神なのかもしれない。

*これは大変に生半可なインド哲学の知識を基にしております。「それは違うぞ」という点がありましたら、こっそり教えてください。

(評価:★5)

投票

このコメントを気に入った人達 (2 人)ルッコラ ALPACA[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。