コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] エイリアンVS.プレデター(2004/米=独=カナダ=チェコ)

「魂のない映画」としてのあり方が、イヤになるくらい正しいです。
Myurakz

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 僕はこの「VS物」シリーズというものは、必ず元ネタの「魂」をどこかに置いてこなくてはならないものだと思っています。何故ってやっぱりヒーローは世界にたった一人だからこそヒーローたりえるわけですし、それは破壊者、殺戮者においても同じことだだと思うから。『エイリアン』という作品の魂が「人間が“寄生対象”という“物”にされてしまう恐怖」にあり、『プレデター』という作品の魂が「人間が“獲物”という“動物”にされてしまう恐怖」にある以上、その二者が一度に襲いくる状況というのは、怖がる側である人間の軸が定まらない状態でしかないんです。ただ「殺される」っていう恐怖だったらスプラッタを見ればいい。

 じゃあこのシリーズの存在価値はどこにあるのかというと、正にその「魂が空っぽである状態」にあるんだと思うんです。ファンや観客は、その空っぽの体の中に「己の魂」を入れて遊ぶんです。それは子供がヒーローの人形で遊ぶのと同じことで、恐らく観客だけでなく、作る側も同じように遊んでいるんだと思います。あのキャラクターのあんな姿こんな姿、こんな場所でのあんなバトル。一人でも多くの人間の妄想を具現化して、壮大なお人形遊びに参加させようというのが、このシリーズのあるべき姿だと思うんです。

 である以上、作品はこの二つのキャラクターの「最も訴求力のある点」を打ち出した物でなくてはなりません。出来る限り多くの魂を内包できる、キャパシティの大きな作品にしなくては、存在価値がなくなるんです。そしてその「両キャラクターにおいて最も訴求力のある点」こそが、プレデターにおける「闘士としての意志・プライド」であり、エイリアンの「不愉快な美しさ」だったと思うんです。

 そう考えると、このストーリーが元ネタを活かそうと非常に考えられた物であるように思えてきます。内面にこそ本質があるプレデターにはドラマを持たせることで「闘士」としての「心」を描き出し、逆に外面に本質を持つエイリアンはドラマは排除することで、「獣」としての「本能の美」を浮き彫りにしていきます。だから今作のプレデターはひたすらに潔く、エイリアンはひたすらに美しいです。

 主人公がエイリアンの体で作った武具を身につけるシーンは、特にそれが強く現れたシーンだと思いました。エイリアンの体を武器とし、プレデターと同じ心を持って戦いに赴く主人公。あれは彼女を軸としてこの二作品を一つにまとめていくということへの意思表示なんだと思います。

 もちろん「戦闘シーンがあまりに判りづらい」」などの不満はありました。「魂がない」なりの空腹感も感じます。ただ上記の通り、今作のあるべき姿を考えたときに、マニアの人もそれ以外の人も極力拾ってみんなで遊ぼうという意図が感じられるこの作りは、非常に正しいあり方なんじゃないかなぁと思うわけです。

 こういったお祭り映画を作る時に、高い確率で及第点以上の物を出してくるアメリカ。同じくらいの確率で逆に転んでしまう日本のファンとしては正直うらやましい限り です。きっと「お客さんに観せられる最低限の線」っていうのがシビアに決まっているってことなんでしょうね。『フレディVSジェイソン』に続いての今作を観た限り、もう僕の中では結構「信頼のシリーズ」になりつつあります。

(評価:★4)

投票

このコメントを気に入った人達 (5 人)DSCH[*] 代参の男[*] 鵜 白 舞[*] ミュージカラー★梨音令嬢[*] Keita[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。