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[コメント] 甲野善紀身体操作術(2006/日)

図らずも「言葉というメディアの限界」なんてことを考えさせられた。
Myurakz

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 最初に書いておく。この映画の音楽はクソだ。

 スッキリしたところで本題。映画の出来不出来に関わらず、この甲野善紀という人は抜群に面白い。それは「体を鍛えずに猛者をコロコロ倒す」というファンタジーの面白みと、「身体の可能性を独自に探求し解明する」というリアルの面白みが、何とも不思議な同居をしているからだと思う。これが前者のみに偏ればただのペテン師だし、後者のみに偏ればただの変人だ。リアルな思考を積み重ねていった結果としてファンタジーのような現象に行き着く。それが僕らに説得力溢れた夢を抱かせてくれる。

 この人には「強さへの渇望」というものが一切感じられない。今まで僕らが見てきた「強さを追い求めた結果として無の境地に至った」ような達人を「体育会系達人」とするなら、この人はその逆、「理を突き詰めた結果として強さを身に付けてしまった」という「文科系達人」なんじゃないだろうか。この辺りが大変に不思議で面白い。人が考えに考え続けると強くなるというのは、僕にとってこれ以上ない憧れだ。

 実際この映画の中にも「井桁崩し」を始めとしてさまざまな理論が登場する。これらを観ているときの感覚を例えるなら、それは「トレーニング講座」を観ているときの感覚より、「数学講座」を観ているときの感覚に近い。甲野先生本人は「口で話しても伝わらない」と言うが、それを何となくであれスクリーンを通して伝えてしまうというのは、この人が大変な理論家であり論客であることの証明なんだろう。

 ただそれが逆に、僕に「言葉の持つ力の限界」を感じさせてもしまう。これだけの思考と論理をもってしても、この人が解き明かしている事実の概略すら伝え切ることはできないんだ。実際「井桁崩し」辺りは何となく分かった気にもなれるが、「チェーンソー」に至ると何が何だかサッパリわからない。「言葉の意味はよく分からんが、とにかくスゴい自信だ」程度しか理解できない。

 そしてそれを理解できるのは体感した人々だけだってことになる。そこはもう言葉の力が及ばない世界だ。そしてそれは「言葉の力が及ばない」と同時に、「言葉というものが持つ普遍性」を有し得ない世界だ。近代のトレーニングよりよっぽどスゴいことをやっているのに、理論体系化できないという一点のみで、この人の成したことが世界に広まる可能性は閉ざされてしまうんだ。結果ただの「一代芸」で終わってしまうのは、あまりに勿体ない話だ。

 この人の理論を言葉にしても、その説得力が保たれるのは甲野先生本人の口から出るときまでだ。体験し理解しているはずの周囲の人々の言葉ですら、時に陳腐で薄っぺらにしか感じられなくなるまで劣化してしまっている。少なくともこの瞬間、言語は体感に大敗を喫している。

 そういった視点で観た時、今作で甲野先生以外に最も説得力を有していたのはラグビー部の人々だったように思う。彼らは体感を言葉で説明しようとせず、ただひたすら疑い、驚き、次の瞬間には試合に利用しようとする。そこに言語や理論はなく、ただ体感と現実があるのみだ。にも関わらず、その感覚だけはこちら側にガンガンと伝わってくる。このシーンは本当に面白い。

 言葉の使い方って本当に難しい。だけどここを誰かがどうにか乗り越えて、この甲野先生の技術がもっと広まっていったとしたら、それは大変に楽しいことだなぁと思う。

(評価:★4)

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