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[コメント] マリー・アントワネット(2006/米)

ポップなビジュアルに包まれながら、“疎外感”に悩む王妃。これはソフィア・コッポラが感じたヴェルサイユであり、彼女が感じたマリー・アントワネットである。それが、吉とも出つつ、凶とも出た。(2007.01.21.)
Keita

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僕はソフィア・コッポラの前作『ロスト・イン・トランスレーション』があまり好きではない。“彼女が感じた東京”は東京に住む人間にとっては違和感の多いものであり、恋愛と友情の狭間を表現した人間描写も曖昧に感じられたからだ。

では、この『マリー・アントワネット』はどうだったか。僕としては、前作に比べるとそこまで嫌悪感を感じる映画ではなかった(まず、舞台が東京ではないということは大きかったかもしれないが)。『ヴァージン・スーサイズ』にしろ、『ロスト〜』にしろ、常に光っていたビジュアルセンスは健在で、ポップなソフィアテイストと、ヴェルサイユの華やかな雰囲気を、見事にマッチさせていた。

ただ、これがヴェルサイユか、と問われるとそれはNO。これが、マリー・アントワネットか、と問われるとそれもNO。だが、それで良いのだと思う。ソフィア・コッポラという監督は、“自分が感じたイメージ”を映像として具現化するのに長けるアーティストなのだろう。『マリー〜』は彼女のイメージのヴェルサイユであり、『ロスト〜』は彼女のイメージの東京なのだ(そう考えると、僕が『ロスト〜』で感じた違和感も納得が行く)。

キルスティン・ダンスト演じるマリー・アントワネットは、王妃というよりも、金曜の夜になると騒いでいるアメリカの女子学生のようであり、そんな現代的な女性が悩む様子を、ソフィアは現代の女性観客との共通の悩みとして描いている。

豪華なコスチュームやインテリアに囲まれ、ひとりポツンと佇むシーンを何度か登場させ、派手さと孤独を対比して疎外感を表現する(『ロスト〜』でも、孤独なビル・マーレイと東京の都会を対比させて効果的だったのを思い出す)。現代的な“疎外感”はソフィアにとって大きなテーマなのであろう。そのあたりをコスチュームプレイでもきっちり追求できている点では、独自の作風をしっかり出すことに成功していると思う。

しかし、義妹に先に出産されたマリーが泣き崩れるシーンで“疎外感”の高みを迎えたこの映画は、その後にマリーも出産をすることによって、主題を完全に失い、路頭に迷った映画になってしまった。

その後、処刑されるまでの王妃の姿が描かれるわけだが、ソフィアの描いた現代女性に通じる悩みを抱えるマリー・アントワネットの姿は、歴史上の王妃とは一致しないと思われるため、出産に悩むことで生まれていた“疎外感”が失われてしまうと、歴史モノとしてでは機能しなくなってしまうのだ。結果、終盤はビジュアルの魅力が輝くのみで、急ぎ足で歴史との辻褄合わせをする分、何がなんだかわからない展開になってしまった。

ソフィアの描くマリー・アントワネットでは、歴史的な悲劇性は持たせられない気がするのだ。あくまで現代から見ても等身大の女性として王妃を描くことに最後まで特化した方が、一貫性のあった映画になっただろうと考えると、少し残念でもある。

(評価:★3)

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