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[コメント] 戦艦ポチョムキン(1925/露)

エイゼンシュテインのモンタージュが世紀を超えて評価を受ける理由。(それとハリウッド映画に魅力がない理由)
新町 華終

冬休みの課題(?)として、久々にじっくり鑑賞して、この映画がなぜ「教科書」なのかが少しわかってきました。まず、エイゼンシュテインのモンタージュ技法がなぜここまで評価を受けたのか?

ご存知、モンタージュの技法はいわゆる「編集」です。たとえば最初に男の顏をアップで撮る。そのシーンの次に景色を繋げれば「景色を見る男」の完成。この映像の連鎖性を利用して一つの物語性を持ったシーンを構成する技法がモンタージュ=「組み立て」であります。ホームビデオで作る素人映画(ハリウッドや邦画も含む)なんかはこれが多すぎてかなりウザったかったりしますが、この『戦艦ポチョムキン』はなぜ評価が高いのでしょうか?この作品の持つテーマ性なのでしょうか?

エイゼンシュテイン以前には、舞台をそのまま撮ったようないわゆる「長回し」映画ばかりでこの技法がまるでなかったそうなので、彼は「モンタージュの祖」と言われています。 あの有名な「オデッサの階段」のシーンでは、これでもかとモンタージュの技法を取り入れ、大泉洋が女装したようなおばさんと子供が撃たれ踏まれていくシーンなどは「映像の教科書」として多くのメディアでも評価が為されているので、ご存知の方も多いでしょう。私もその一人です。

まず、モンタージュ技法は最初に挙げた「景色を見る男」の例のように、撮影費用を節約する技法としても利用できます。例えば本来大掛かりなセットを必要とする特撮映画などはモンタージュによって大幅に費用を節約でき、無くてはならない技法です。私の大好きな映画『新幹線大爆破』の実在のひかり号が疾走するシーンでも、映画のために特別列車を走らせている訳ではなく、国鉄の撮影許可も下りてないそうなので、ありゃ普通に走ってる新幹線を撮って使用しています。そして登場人物のカットなどを繋げることであの迫力ある画面が出来上がるのです!…走る新幹線はいわゆる映画用語で言う「吹き替え」(声じゃなく)ですね。

ちなみにこの映画のあの「うじ虫」のシーンでも「吹き替え」が使われています。クローズアップのカットで、ドクターの眼鏡や手は吹き替えで撮影されているそうです。

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さて前置きが長くなってしまいましたが、エイゼンシュテインのモンタージュの技法は前述のようなホームビデオ映画「景色を見る男」と違い、決して予算をケチる目的では作られていないことに気付いたのです!!これが「教科書」と割り切って観てた人の落とし穴!!

◆実はクローズアップの後に、必ずロングショットでもその人物が登場するのです!!◆

正直、(私にとっては)コロンブスの卵的な発見でしたが、エイゼンシュテインのモンタージュの技法は、重要な役者には二度三度演じさせ、それを繋げるというかなり手間のかかった撮影をしているのです。 (よく観てみるとモブシーンでは大した演技をしていなかったりもする) だからこそ、観ている観客は画面いっぱいに映し出された役者の演技に釘付けとなり、そして次でモブシーンに入り込み演技を続ける彼を自然と追いかけてしまいます。しかもカメラアングルが2台3台と切り替わることで、スピード感や緊張感をも見事に演出しています。

…この映画においてモブ(群衆)シーンは特段の重要性を持ちます。なぜならこの映画はロシア革命を成し遂げたボルシェビキ(多数派)賛美のためのプロパガンダ映画であるからです。(ちなみに戦艦ポチョムキンの反乱は1905年「血の日曜日事件」の前後で起こった史実に基づいて描かれています)

多数派のための映画だからモブシーンは当然。しかしたとえば革命の壮大なシーンばかりを撮っていてはどうでしょう?観客はどこに視点を定めていいかがわからず、革命のエクスタシーにのめりこみこそすれ、群衆それぞれの意図はわかりません。ただの俯瞰視されたドキュメンタリーです。そこでストーリー性を待たせる意味でも必要となったのが重要人物のクローズアップをカットに繋ぐというモンタージュ技法なのです。

考えてみるとこれは現代のドキュメンタリーでもよく用いられますね。山田太朗くん(20歳仮名・無職)とか。…一人の視点を追いかけることで番組が構成され、観客が感情移入できる等身大の主人公が動き回り、時折、ナレーションと俯瞰視点が挿入されることでドキュメンタリー番組は成り立つという…。

この『戦艦ポチョムキン』に歴とした主人公はいません。殺されてしまったバクリンチュクは「登場人物」としては一番のメインですが、この映画では多くの名もない群衆が主人公と言えるでしょう。時折カットインされる名も無き市民たちの表情…不安・悲しみ・怒り・喜び…まさにモンタージュによって映画は成り立っています。

つまり、この映画は「モンタージュ」がなければただのストーリーのない記録映画となっていたのです。

特にプロパガンダ映画は、大衆に飽きさせないための工夫が随所に散りばめられている必要があり、エイゼンシュテインは要求された仕事に対して、かなり高度な技術で応えたと言っていいでしょう。

また、「モンタージュとは、関係のない二つのカットを繋げることで意味を持たせる技法」という訳し方があちこちで散見されます。この映画の中での、ポチョムキンに砲撃される直前のライオンの像のカットなどはまさにそれですが、これは前半で充分に演技が連続するモンタージュ技法が使われることで、初めてその深みが発揮されるということを理解しないといけないと思います。

そのカット割り一つ一つ見ても実に巧みです。帝政ロシアを象徴する士官たちのアップはワンショット。バクリンチュクなどボルシェビキを象徴する水兵たちのカットは複数人ショットで描かれ、少数vs多数の対立の構図を見事に描いています。また怪しげなキリスト教神父はおどろおどろしい炎をバックに、ポチョムキンに手を振る子供たちの笑顔は悲劇の直前に…など、巧みなモンタージュ演出に観てるこちらの感情も「思想を問わず」揺り動かされっぱなしになります。

共産圏の映画ながら当時秘密裏にフィルムが世界各国に行渡り、検閲から免れて上映されてたというのですから、その映画技法が当時としてもどれほど衝撃的だったかがわかりますね。

…ところで、この芸術性と相対するものがあのハリウッド映画たち。

馬鹿映画の基本は感情移入できない主人公。容姿端麗で不自由さのカケラも無く、ギャラをしこたま貰い、その高額なギャラの分だけ長回しが多い主人公。

当然、彼・彼女に高額なギャラを支払ってしまっているので、モブシーンはない、もしくはCG。また群衆が出てきてもほんのちょっとだけで、最後にみんなで「ワー!」と主人公を称えておしまい…とか。そんな大衆不在の、もしくは主人公のOne takes Allが大衆に訴求力を持つものでしょうか?

都市を破壊され逃げ惑うシーンのみ群衆とかいう映画はそれはそれで好きですが、『ガンジー』の「塩の行進」のシーンや、『遠い夜明け』のピコの葬儀のシーンなど、意思を持った群衆はかくも逞しいというシーンは最近お目にかかりません。(←どっちも監督一緒) ぶっちゃけて言えば、主人公だけで魅せようなんて映画は私個人にとってはわざわざ映画館で観る価値は一切ありません!…ビデオで充分!!わざわざ映画館に1800円払って、貴重な時間を潰してみんなでスクリーンに没頭する必要などあるでしょうか!?

「わかっちゃいないぜ、ハリウッド!!」

…などといつしか叫んでいた自分。

スクリーンの大画面というものは、たとえば、多くのエキストラたちの動き一つ一つを映し出すためにあるのです。たとえば、ハリウッド製CGで作られたコピペだらけの画面に、隅々まで見せる訴求力はあるのでしょうか?

そして、「モンタージュ技法」で繋いで、かつ魅せることの出来るシーンが今の映画にどれほどあるというのでしょうか?

そんな思いを叫ばずにはいられない『戦艦ポチョムキン』鑑賞の一夜なのでした。

(評価:★5)

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