コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 1941(1979/米)

「転びましたっ! スピルバーグ転倒! 転倒です! 満場の観客は総立ちでボーゼンとしておりますっ!」 - 何が原因でこんな大失敗作になったんでしょうね?
Amandla!

 スピルバーグの欠点は「健全」過ぎること。ここに諸悪(?)の根源があるんですよ。なにしろ「ディズニー」育ち。お坊ちゃまなの。そして、ここがウォルト・ディズニーとの最大の相違点。ウォルト・ディズニーはお坊ちゃまではなく、《大人として》子どもに語りかけるけど、スピルバーグが子ども向けに作品を作ると、自らの幼児性を剥き出しにするわけ。子どもと一緒になって面白がる。

 コメディってのは面白みを裏表知り尽くした側が作らないとちっとも面白くないのよ。ほら、人を笑わそうとしてて自分が笑い出してしまうみたいな。聞かされる側は全然笑えない、ってよくあるでしょ。

 おねーさんが泳いでいました、『ジョーズ』の時は水中に引き摺り込まれてしまうけど、今度は逆に持ち上げられちゃう。それはいい。でも、持ち上げられたおねーさんの水着姿・お尻を見て日本兵が興奮。なにこれ? でしょう? 万年少年のスピルバーグにとって面白いと思える「常識」がこれだった。この「健全」さに、観ている側は呆れ返ってしまうよね。

 『ダンボ』を観て泣く将軍? ご冗談でしょう。そういったネタは、人物造形が背景にあってタイミングよく出せばまた別だけど、そうでなきゃ笑うのはお子さまだけ。つまりこの人には、まだお子さまの部分があって大人の機微は理解できないところがあるのね。ポジティブに言うなら子どもの心性を捨てずに成人できた、と言える。

 ハリウッドで監督ということになると、雲上人というか一般のクルーとは別の世界に住んでいますから、つきあうのは利害関係者が中心。誰も指摘してくれなかった。若くして偉くなるとこうなるから可哀想。

 余談ですが、『アナライズ・ミー』でロバート・デニーロがテレビ観てて大泣きするシーンがあったよね。あれもコメディーだったけど、こういうの出てくると、観る側は脱力の極み。コワモテのギャング造形の人物の涙もろさ、その落差で笑えるだろ、みたいな安易な作り方は勘弁してほしい。作ってもいいけど公開するときには「お子さま向け」と大書してほしい。

 でスピルバーグです。子どもの心性を残したまま「健全」に成人したせいで、彼は真面目なんですね。真面目というと聞こえはいいけれど、言い換えれば愚直。だから、真剣かつ真面目に作る。作ったはいいけど展開がバレバレ。おいおい、事前にネタバレを示唆しながら演じられるネタで笑えるかいっての。笑えるわけがないっ。コメディを観に行って「スピルバーグは人柄がよかった」では納得できませんよね、観客は。ネタバレの手品見せられて面白いわけがない。コメディにならないんです。

 彼の人柄のよさ、真面目さは、彼自身の「常識」の範囲を狭め、ますます「健全」、善良にならざるを得ない。スピルバーグって典型的な小市民なんです。

 『激突』や『ジョーズ』の場合は事情が若干違います。健全で善良な小市民が何かに脅かされる、という部分を描くの。小市民は臆病なんです。得体の知れないものに脅かされるのを描くのに、健全・善良はまったく邪魔にならない。『激突』の主人公は絵に描いたような善良な小市民だし、『ジョーズ』の場合はブロディ署長や海洋学者のフーパーも小市民。クイントは小市民から少々はみ出しているせいか、あっけなく死んでしまったりする。ここでは健全な側が脅かされる、というのが主題だから「健全」さは映画をつくる上で何の障害にもならないのは当然。エリート嫌いというのもスピルバーグの特徴であり、同時に欠陥だったりするのね。タンクローリーのスリラーで大ブレイク、鮫のスリラーで驚異的大ヒット、じゃあこんどは日本軍の潜水艦でいってみよう、こんどはコメディだぞ、と張り切ってみたけれど、そうは問屋が卸さない、みごとにコケました。

 「健全」で善良な小市民は、当然の帰結としてノン・ポリティカル(非政治的)なんであります(笑)。笑っちゃいけないんだけど、でもそうだよね。ジョン・ミリアスの原作も結構ノンポリなんです。まぁ、それなりには読ませて、ニンマリぐらいはできる作品になってます。でも素材は戦争なんですぜ。戦争ってば究極の「政治」(ポリティックス)ではないですか。その戦争を描くのにポリティックスを抜いてしまったら、気の抜けたコーラみたいなものになりますよね。だから原作読んでニンマリしても読んだあとに何も残らない。穿った見方をすると、現実逃避の夢物語、なーんて言うとファンの方に怒られちゃうかな?

 ノンポリゆえに、政治的な作品には手が出せない。そういうわけで、このあと監督として手掛けた「多少なりとも政治的な」作品といえば、(1)『カラーパープル』、(2)『太陽の帝国』、(3)『シンドラーのリスト』、(4)『アミスタッド』、そして(5)『プライベート・ライアン』だけ。あとは子ども向けファンタジーや冒険活劇を監督するかあるいは製作業に専念。監督としてポリティカルな作品を手掛けようとしても周りの人から「やめなさい」と言われるのは当然でしょう。ノンポリと言えば聞こえはそんなに悪くないけれど、要するに政治オンチなわけ。それがこの『1941』でバレてしまった、と、こういうわけです。

 観た人はおわかりかと思いますけれど、多少なりとも政治的な上記作品群も、(5)を除くすべて、みどころは「健全」な常識・良識に訴える部分ですよね。ポリティカルな部分は欠落してしまう。また、逆に冒険活劇の中にポリティカルな部分が出てくると、こんどはまさに絵に描いたようなステロタイプになるんです。監督作品ではないけれど『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のリビア人過激派は、典型的にそういうところがみられるわけです。リビア人の過激派組織って聞いたことないんだけどなぁ(笑)。ちなみに同時多発テロの直後、ニューヨークでは『バック・トゥ・ザ・フューチャー』が放送されていたとか、なぜ? どーして?(笑)。この放送は、米国にも国家体制に提灯持ちする輩が多いんだな〜と思わせるエピソードとなりました。

 それはともかく、善良な小市民として、夢と冒険とスピード感あふれるスリルを追求する、というのがこの作品以降スピルバーグのスタイルとして定着していくわけです。

 ところで」・善良な小市民であるスピルバーグはどこに行き着いたでしょう? 宗教でした。

 『レイダース/失われたアーク <<聖櫃>>』のアーク/聖櫃とは何かというと、預言者モーゼが神から授かったとされる十戒が刻まれた石版、を収める「契約の箱」(アーク)なんです。キリスト教? ちがいます。ユダヤ教でした。

 もともとスピルバーグはユダヤ人。聞くところによるとアシュケナージ(東欧の白人ユダヤ系)で旧ソ連あたりの三世らしい。ユダヤ人であることに子どものころからトラウマに近いコンプレックスを持っていたといいます。成人して財産と名誉を築いてから、ユダヤ教にのめりこみます。確か『シンドラーのリスト』の時期に「改宗した」というような報道に接した記憶があるんですが、恐らくそれは誤りでもともとユダヤ教の家庭に育っていたけれど、信仰の決意を公表した、というのが実状に近いと思います。たぶん『シンドラーのリスト』を製作する過程で、信仰に確信を持ったのではないかな。

 かくしてスピルバーグの「健全」さ、善良さ、そして「常識」は、ユダヤ教の教えのおかげで、ますます磨かれていくことになります。だから彼の作品はどんどん説教臭くなってくるわけです。

 さて、話を『1941』に戻します。スピルバーグはお得意の「夢と冒険とスリルあるスピード感」を、このコメディー作品に盛り込んだつもりでした。だから作った当初はウケるに違いないと思っていたに違いない。第一作でタンクローリー、次に鮫で大ヒット、こんどは日本軍の潜水艦だぞ、これでどうだ!と。ところがその希望的期待は大外れ。惨憺たる評価を受けてずいぶん凹んだことでしょう。そして「あぁ、ボクの『常識』はヒジョーシキだったんだ!」と自覚。自ら失敗作だと認める最初の作品となった記念碑的作品です。出来上がった作品を観たキャスト一同、きっと呆然とさせられたことでしょう。三船敏郎さんも困惑したのではないでしょうか。

 『カラーパープル』は被抑圧層への共感と理解を、そして『シンドラーのリスト』は自らの出自を語ることになったわけです。これは順当。では『プライベート・ライアン』はいったい何? ノンポリの戦争観って一体? それについてはまたいずれ………。

(評価:★1)

投票

このコメントを気に入った人達 (8 人)けにろん[*] イライザー7 ペンクロフ[*] tredair[*] 埴猪口[*] ジョー・チップ 若尾好き torinoshield[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。