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[コメント] ビッグ・フィッシュ(2003/米)

誰がための物語?
kiona

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ほとんどスクリーンの向こうに引きずり込まれながら観ていたのだが、残された理性で二つのことを考えていた。一つ、バートンの変化と『フォレスト・ガンプ』との相関について。二つ、主人公の役者を分けたことについて。

まず、バートンの変化は確かに感じ、戸惑いもした。しかし、何故こうも引き込まれるのかと考え、同じ与太でもまったく引き込まれなかった『フォレスト・ガンプ』を思い出した。

フォレスト・ガンプ』の物語は、どうひっくり返って見たって「ガンプによるガンプのための物語」ではなかった。ガンプは単なるメディアに過ぎず、物語は「皆=アメリカの物語」であり、同時に誰のための物語でもなかった。それに比べると、『ビッグ・フィッシュ』の物語は徹頭徹尾「俺=エドワード(アルバート・フィニー)の物語」であり「俺=エドワードのための物語」だった。

感動したのはこの点だ。このバカ親父はひとえに自分が観たい物語を追い続けていたのであり、それを他人に話して聞かせるのもひとえに自分がその物語を信じていたからだ。

彼は息子に「本当の父さんはどうなんだ?」と問われ、一瞬キョトンとした後、憤慨して「これが俺だ!」と叫ぶ。これはつまり彼が物語を誰かに聞かせるにあたり、たとえば息子に聞かせるにあたり、それを聞かせる以外の目的(浮気の言い訳であるとか)を持っていたわけではないことを意味していると同時に、徹頭徹尾自分のために語っていた、彼の物語は彼のための物語だったということを意味している。息子のため、息子に何かを伝えるため、息子に何かを教えるため――このバカ親父に限って、それらは一切無い。一切無かったからこそ、息子は最後の最後で 自分から 親父の物語の真価 と 自分の物語を抱くこと の素晴らしさを学んだのだ。

そして、この物語というものの位置づけをゼメキスのそれと比べてみれば、バートンの変化は変節ではなく成熟だったと考えていいように思う。

次に、エドワード・ブルームのキャストを分けたことについてだが、最初に老いたブルームをユアン・マクレガーが演じないと知って「おや?」と思った。バートンなら、お得意の特殊メイクの使用を考えないわけがなかったはずだ。

やらなかった理由の一つは、言うまでもなくバスタブのシーン等、熟年のリアリティに拘るべきシーンがいくつかあったこと。マクレガーアリソン・ローマンの特殊メイクであのシーンの素晴らしさは再現できなかったろう。

くわえて、企画段階から当然懸念されたであろうマクレガーフィニーのギャップに関しては、バートンはむしろポジティブな解釈を持っていたのではあるまいか。あくまで、個人的な実感だが、観ていてつくづく分けて正解だと思った。

まず、観るべきはマクレガービリー・クラダップの間のギャップだ。後者が現実なら、前者は虚構そのもの。そう、魔女に大男に狼男にとありえないキャラがぞろぞろ出てきたが、一番ありえなかったのはエドワード(フィニー)語る物語の中のエドワード(マクレガー)のスーパーマンぶりだった。

物語とは願望の結晶体だ。物語の主人公エドワード(マクレガー)はナレーター・エドワード(フィニー)の願望であり、母体からギャップがあって当然のものだ。もちろん、当のバートンがどう考えていたのはわからない。ただ、やはり、クライマックスの演出等を見るにつけ、確信的だったのではないか?

エドワード(フィニー)が語るエドワードは常にマクレガーだった。フィニーではなかった。言ってみれば、自分であって自分でなかった。だが、最後の最後、息子の物語の中で、初めて自分(フィニー)が自分として登場してきたのだ。そして、ラストの葬列ではどちらももういない。フィニーマクレガーも見せない。勢いだけで押し切った様で、その実繊細な仕掛けだったのではないだろうか。

最後に、あの葬列は「現実」だったのだろうか?自分には、まだ現実という母体から分娩されていない「ウィルが夢観た物語」のようにも見えた。

(評価:★5)

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