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[コメント] エイリアンVS.プレデター(2004/米=独=カナダ=チェコ)

エイリアンやプレデターほどの看板を持ってきて、体育館レベルの興行なんて失礼もいいところだ。オタクのスメルは隠すんではなく、世界中に撒き散らせと言いたい。
kiona

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







VSものは、対峙する両スターをいかに見せるかという本題以上に、マッチメイクの過程が重要だ。

では何を見せるべきなのか? たとえば、これが格闘技なら見ていて一番興奮する瞬間は? それは紛れもなく両者がリングで向き合っている瞬間だろうが、その瞬間に興奮できるのは、それ以前に個々の選手に見る側として思い入れる高揚の時間があってこそだ。入場シーンから、いや、マッチメイクが決まってから、いや、マッチメイクが望まれてからの過程が物語に必要なのだ。

あるいは、それを実現させようとして奔走する興行師(※登場人物の職業としてのという意味ではなく、作劇における役割としての興行師)の奮闘こそが、我々観客を映画にのめり込ませる装置になる。

この映画にはその装置が無い。装置たるべき第三者=人類がまったく機能していない。ファンの心理を担い、同時に観客の視線となりうる登場人物が、両者がファーストコンタクトする機会を作り出してしまう! といった物語がなければ、長年のファンはともかく、一見さんはどうやって話にのっかればいいのか。

あまつさえ、「このマッチメイクはプレデターが仕込んだ儀式でした」というのは最悪の設定だ。何故なら、我々が見たかったのは何度も繰り返されてきたことではなく、史上初のハプニングだったはずである。ポケモン状態のエイリアンも気に入らなければ、訳知り顔でエイリアンに臨むプレデターもまるで面白くない。

そして、この世界観の矮小さと閉塞感はどうだ。興行が大衆を巻き込むべきであるように、物語は全人類を巻き込んでいくべきだ。この映画に限らず昨今のハリウッド大作は、どうも舞台が狭苦しい。どっかの秘境とか、どっかの雪原とか、どっかの地下研究所とか、とにかく人類を巻き込めなくなってきている。予算減少のせいか、作家の質の変化か。

エイリアン』にしても、『プレデター』にしても、舞台は宇宙船や戦争地域といった特殊な場所だったが、非常にリアリティーがあった。リドリー・スコットジョン・マクティアナンは、未知の映画を作るに際して、まだ産声をあげる前のエイリアンやプレデターを考える時、架空のそれらを考えると同時に、その大きな嘘が投下されるこの現実そのものを考えただろう。架空の世界観はもちろん、架空の存在であるはずのプレデターやエイリアンが現実世界に作用し、その反作用が彼らに返るまでを。

それに比べるとこの映画、エイリアンもプレデターもよく動くが、世界観同様、物質的、実存的リアリティーが希薄だ。それはCGだからというよりも、この監督を含めて新世代のオタク監督たちの感性が、子供の頃からスコットスピルバーグルーカスキャメロンの完成された世界観に浸かり過ぎて、それを鵜呑みにするあまり、箱庭に没しているからではなかろうか。

(評価:★2)

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