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[コメント] 監督・ばんざい!(2007/日)

「コールタールの力道山」にすべてが集約されているように思える。言うまでも無く『ALWAYS 三丁目の夕日』ありきの話で、「監督は“俺は昭和三十年代を誰より知っている”と言っている」との前口上で始まり、真逆というか、裏というか、そんな感じの内容が展開される。
kiona

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 あ、ちなみに、自分、『三丁目の夕日』はテレビで一部を見ただけなので、以降の話はそういう者の話と思って聞いてください。

 で、その見た限りでは、『三丁目の夕日』の子供たちは(実のであれ、そうではなかれ)最終的には家族に恵まれ、暖かい景色に包まれていたように見え、子供は子供らしさを保障され、庇護され、それを以って映画は観客のノスタルジーを肯定もしくはさらに美化する装置として機能していたように思えた。

 「コールタールの力道山」に描かれた子供たちはそうではない。よそ者にカツアゲを行う下町庶民、父親を避けて電灯の下で勉強する兄、ちゃぶ台越しの父親を恐れ、俯き、正座する主人公、暴君たる父親はしがないペンキ屋で、家計は実は母親が畑仕事で支えているのだが、父親は理不尽に家長の絶対を気取る。母親もこれに負けない強さで、父親と真っ向から罵り合い、やがて臆面もない家庭内暴力が少年の眼前で展開される。そして、中年親父はくんずほぐれずやっている内に発情し、そのまま中年の母親を強引に犯すのだが、母親もいつの間にやら受け入れている。そんな中年父母の目も当てられない情事を、子供が目撃してしまう。しかし、そんな光景にも、子供は傷ついてなどいられない。何故なら、それが日常だからだ。昨夜のことなど無かったかのように接してくる母親を尻目に、少年たちは力道山ごっこに興じるのだが、それはそんなに微笑ましいものではなく、ただ、ガタイが良く、腕力のある者が一方的に相手をのす弱肉強食の縮図があるのみだ。或いは、ナイフを持って粋がるあばら家のせがれは、父なし後で、母親から幼くして労働を強制されている。或いは、赤痢で死んだ近所の子供。或いは、何を売ってるんだが解らない駄菓子や。いつの間にやら、ストリーテーリングの技術を身につけていた作家が綴るこれらのシーンは実に雄弁で的を射ている。

 しかし、これが駄目なのだ。何故なら、たとえ、作家の才能を垣間見せるものだったとしても、じゃあ、これが何なのかと言われた時、このオムニバスの一話は何にもなりえていない。アンチに始まったんだろうが、その姿勢は極めて中途半端で、ケチな揶揄にもなりえていない。企画としての確固たる狙いが無いものはその時点で負けている。『三丁目の夕日』は、正直言って、自分にはあんまり合いそうな映画とは思えなかったし、その狙いにも共感はできないんだが、それでも、企画としては立派だと思う。確固たる狙いをもって、それを撃ち抜いている。アンチにそれなりの体力を要求する強度を持っている。「コールタールの力道山」を撮った武には、そんな気概は無い。そして、武はそれを自覚しているから、なおアンチとして成立させることなど出来ないし、成立させることに大した意味などないことも解っている。結果的に、ビートたけしがテレビでやるような突っ込み程度のものができたが、映画監督としてはそれじゃ駄目なわけで、しかし、それじゃ駄目なことも武は解っている。解っていながら、それでも、今はそんなつまらないことを羅列することしかできなくなっており、「逃げてます(笑)」というエクスキューズの人形なんかを出し続けた挙句の果てには、ラス前までの話をすべて卓袱台返しして、最後の最後で『TAKESHIS’』を再開してしまう始末だ。

 まさに『監督・おてあげ!』って訳だ。

 あのなあ……いくらなんでも、こんなもんで、金撮っていい訳ねえだろ、死ねコラ!

 それでもこれ、俺にとっては面白いんです。勝手な思い込みかも知れないんだけど、俺にとっては不可解なことなど一つも無く、それどころか全てが手に取るようにわかる、理解できるんです。

 あと、復帰した内田有紀、初期の北野映画よろしく突っ立っているだけなんだが、厚化粧がかわゆく、スリムジーンズのシルエットが見事で、びっくりするほど色っぽく見えた。これだけでも見て良かった。

(評価:★3)

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