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[コメント] GODZILLA 怪獣惑星(2017/日)

もっと絶望をくれ。
kiona

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 災害に起因した極限状況を放浪する移民たちが究極の選択を迫られるというテーマ、それを彼らに強いたのがゴジラであるというモチーフが、力業ではあるもののリズミカルにまくし立てられ、冒頭から引き込まれる。プロットの構成と演出のリズムが良い。情報過多の脚本は押井守とプロダクションIGに端を発する、今となってはオールド・スタイルにも見える会話劇をストレートに敢行しており、『シン・ゴジラ』とある意味では類似し、ある意味では異なっている。何が異なるかと言えば、連写、速射される情報の数々がすべて我々の日常とリンクしていた『シン・ゴジラ』のそれにくらべて、今回はテーマの根幹をのぞいて、多くが多くの耳目をかすめるだけの無味乾燥な疑似科学のそれにすぎない。ところが、演出はこの点にも自覚的で、大向こうが取り残される寸前に空論を切り上げて活劇に進んでみせる。地球帰還までのくだりなど、なかば破綻しかけながらの端折り方だが、そもそもゴジラが見たい観客が目くじらを立てることは少ないだろう。

 なぜなら、これはゴジラの映画だからだ――

 それは、このシリーズの企画に課された十字架であり、同時にプロが仕事を問われる超難関だ。シリーズの歴史を蔑ろにすれば叩かれ、逆にファンへの目配せだけで終わっても誰も良い顔をしない。我々もしない。それは過去にいくらもあった。我々は今や作品がジャンル映画のエクスキューズを越えることを何より期待しながら、同時に作家がどこでどういうレベルの妥協をするのかを注視している。『シン・ゴジラ』のあとであればなおのことだ。ハードSFの装いを後付けるための膨大な設定考証は、観客の耳に響かせるためというより、むしろ企画が己自身を立たせるための葛藤であるとさえ見えてくる。

 ところが、映画というメディアが抱える命題は常にシンプルで、それは大向こうを巻き込めるかという一点にかかっている。この観点から言えば、『シン・ゴジラ』の巧妙に比すまでもなく、そもそもSF自体がナンセンスに切り分けられる(逆に、『メッセージ』のような超能力ファンタジーへのすり替えが安易に重宝される)世相であり、ゴジラ映画でそれをやる生半可にも観客は盲目でいない。わかりづらいものはわからない。わからないものはつまらない――むしろ即物的な直感がロジックになど目もくれず、えてして正しく作品を切り捨てる。それでも彼らを引き留められるかは、普遍的に登場人物のエモーションにかかってくる。演出のリズムが観客を引き留めた先に、果たして脚本は人物造形に誠実な整合性をもたらしているか。

 この点に関して言えば、脚本は三部作の一本目として致命的な負債をかかえたと言わざるを得ない。就中、主人公とヒロインだ。主人公が持たされたテーマは深淵にして重い。最悪と、より最悪の選択肢しかない状況では、ましな最悪を選ぶか自害するしかないのだが、それはしかし額面通りの喪失がついてまわる。それでもその選択肢を突き進んで、なおかつ人類の尊厳を謳う主人公は、当初、体制に反旗を翻して少数の弱者を救おうとしたのではなかったか? それが、いざ自身の部隊を持たされるや、いっさいの犠牲を振り返らなくなる。そう在らざるをえない主人公は寡黙であるしかないと自分は思うのだ。なぜなら、喪失を言葉は埋め合わせない。ところが、ハルオは饒舌に自らの論理をまくし立てた先に、演説を打つ。これが『シン・ゴジラ』の矢口蘭堂(長谷川博己)の演説に遠く及ばないことは火を見るより明らかだ。語りかける相手に「死んでください」との台詞にはいくつか必要な構造があって、そのひとつはまず群像劇であることだと自分は思う。この企画は、どうしてヒーロー映画を志したのだろう? 「オレはキサマを……」と叫ぶごとに、人類の選択、尊厳という大命題が単なる個人的なリベンジに矮小化していく。「オレは……」ではないのだ。名も無き書き割りの死はひとつも悼まないくせに、後輩の少女にだけは目配せし、自身の破滅は別の美少女によって回避される。この顛末が蔑ろにしたものは後述するとして、ひとつ不安になったのは、まだこれをやらねばならないのかという疑問だ。その主語がアニメなのか、エンターテイメントなのかはわからない。それがわかるほど、自分は昨今の映画を見ていないし、アニメにも触れていないが、この作品の彼らは特別古くさいのだろうか?

 個人的には思うのは、どうしてハルオを最後に殺さなかったのだろう?

 この一本は、ゴジラ・フィリウスを甚大な犠牲を払って倒した主人公が、直後のオリジナルの出現に踏みつぶされる完璧な絶望を提示しきるべきだった。なぜなら最も重大なのは、もちろんゴジラそれ自体だからだ。

 六十年あまりの歴史を経て移り変わる時代のなかで、しかもエンターテイメントとして成立させなければならないキャラクターを再定義するのは誰にとっても難しい。この企画におけるゴジラは植物の性質、放射能ではなく荷電粒子(デス・ザウラーの亡霊がこんなところで先祖に憑依した)の熱線という、またも大胆な設定のすり替えが行われながら、それでもゴジラの一側面を顕示するべく振り切られていると思う。北村ゴジラから慎まなくなった虚構であることへの居直り、強大さがシン・ゴジラを経てインフレを起こすなかで、かつての色気、言い換えれば初代の設定、金子ゴジラをふくむ手塚ゴジラまでの着ぐるみがそれでもギリギリ保っていたジュラ紀から白亜紀の狭間に極めてまれに存在した生物の生き残りであるという約束が蔑ろにされていることは決して小さくないのだけれど、自分はこのゴジラも支持したい。シールドの設定はよくある巨大シップのそれで感心しないのだけれど、荷電粒子のコンセプトはリアルである以上に、砲弾に近いというリズムがかつての万能レーザーよりも戦闘にドラマを与えている。脇の下をくぐり旋回する、CGならではのカメラ・ワークが構築する強大さは存分に圧倒的だ。目があったら、次の瞬間、かき消される――リーランドというキャラクターの殉死が体現した、ヒリヒリした感覚が作品の根幹である人類の滅亡というテーマにきちんと則している。

 だからこそ思うのは、どうしてここでハルオも殺さなかった?

 絶望に始まった物語をさらに完璧な絶望で閉じることで、なおもエンターテイメントとしてカタルシスを醸成しうることを証明する希有な一本となれたはずだし、それができる、むしろやるべきシリーズがあるとすればゴジラだけなのだ。しかも、サーガの一本目という好機。さすれば、つまらない後輩少女のキャラもハルオの意志を継ぐべく引き立てられて、次作への生命線もより緊張感をもって保たれただろう。モチーフとして少女の肉体性と純情を求めるメカゴジラとの相性も良い……というのは世迷い言にしか聞こえないかもしれないが、それもアニメというメディアで見てみたかった。

 そう、何かあるのか?

 脚本家は、ハルオに何を期しているのだろう? 期するものが確かに在ることを切に願っている。おまえは次作を見るのかと問われれば、めちゃくちゃ楽しみにしているし、それだけの面白味があると思っている。人物造形にはまだ感心できないが、アイデアの引き出しとストーリー構成にはなるほど力を感じる。このレビューをペシャンコに踏みつぶす続編を見せてほしい。

 それにしても、あのメカゴジラは、なぜ起動しなかったのか? ひょっとして彼はAIで、自分の意志で起動しなかったのかもしれない。そして、人類を追い出した果てに機動で増殖するAIの都市を形成していた……あれ? これ、当たっちゃってたら、ごめんなさい。

(評価:★4)

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