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[コメント] ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒(1999/日)

ノスタルジーが逃げ場所として許されるなら、怪獣映画に苦悩はない。(注:文脈の整合性を欠いていた箇所に若干の説明を加筆しました。)
kiona

 当作品に関して:

 自分は、前二作に最高点をつければこそ、この映画にそれ以下の点をつけることが出来ない。

 前二作は確かに至福のエンターテイメントだった。しかし同時に、どこまでいっても過去の本多・円谷特撮の延長にしかなかった。そのことが旧来の怪獣映画ファンを喜ばせてきた。けれどもそうやって往年の怪獣・特撮映画に忠実でいるだけで、どこまで映画として通用するだろう。いくら一部が熱狂したところで、見向きもしない観客が大勢いるなら、それはジャンルとして敗北していることになる。

 この映画で金子監督は、『G2』で尽きてしまった怪獣映画の可能性を“新開拓”することを要求されたのだと思う。そのために、実は三作目にして初めて監督個人の作家性を出したのだと思う。それが例の前田愛の役どころであれば、その役どころ自体に賛否はあっても、怪獣映画にそぐわないなんて言って吐き捨てる気にはなれない。

 全編が何かを希求し、のたうち回っている。旧来の怪獣からの脱却を試み、その容姿もコンセプトも「使徒」に近付いてしまったイリス然り。自然と人間の狭間に立たされて苦悩を強いられる初めての怪獣となってしまったガメラ然り。破壊が産むカタルシスの裏側、初代『ゴジラ』を除いて、ずっと等閑にされてきた被害者の慟哭然り。しかもその綾奈(前田愛)の叫びは、マジョリティのために犠牲となるマイノリティの叫びとして強調されていた。

 公の苦痛と個の憎悪がガメラの双肩にのしかかる。平成ガメラを、いや怪獣を現実社会の中に問う限りにあって、つまり怪獣を天災やそれを防ごうとする者や科学兵器やそれを行使する者の暗喩とする限りにあって、辿り着くべくして辿り着いたテーマだった。シリーズは三本目にして初めてガメラを怪獣映画の箱庭から叩き出し、初代ゴジラが佇んでいた現実社会の中に放り込んで問い直そうとした。それ故に多くの歪な部分を抱え込んでしまったのだ。自分はその葛藤を、完成度ではなく可能性の観点から支持する。現実社会とやりあう怪獣が帰ってきた、そのことの意義は何より大きい。

 金子監督に関して:

 世間には『G2』を自衛隊礼賛ひいては軍国主義映画と見なす向きもあった。日本の現状を素朴に憂う監督のモチーフがイデオロギーの発露にないことは、『大怪獣総攻撃』を見ればわかると思う。『G3』、『大怪獣総攻撃』が怪獣映画を脱したのかどうかは正直言って解らない。『G2』よりも『G3』の方が監督の作家性が出た映画ではあったし、『G3』よりも『大怪獣総攻撃』の方がその作家性をうまく作品に昇華していた。それはすでに放たれ、ガメラに続いて監督も役割を終えた。それでも続いていくゴジラは今、本当の岐路に立たされている。

(評価:★5)

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