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[コメント] 市民ケーン(1941/米)

内容が無いよう? 俺にはあるように思えるが。
kiona

 デキスギ君の孤独。

 この世には、デキスギ君が存在する。ずば抜けた能力を持ち、他人には見えないことを観て、全てをものにできる人間が存在する。ところがそんな人間は、存在しえたとしても認知はされない。いや、理解されない。メディアも世間も、最終的には彼を凡人の価値基準で型にはめてしまうからだ。

 この映画には、デキスギ君がただ一人とその周辺=その他大勢しか出てこない。彼の側近だった優秀な人物達も、結局の所はその他大勢でしかない。何故なら彼の全てを理解することなどできないからだ。

 観客たる我々にしても同じ事だ。

 この映画はケーンという、凡人の範疇を超越した人物の生涯を描くことで、そういった人物のリアリティを虚構の中に産み出そうとしている。だがそこには、一つのパラドックスがある。彼がどのように超人的なのか、彼の中身がいかに凡人を超越しているか、それを表現したいにもかかわらず、もしそれが見ているこちら=普通の感性を持つ我々に伝わってきてしまったなら、理解できるものであったとしたなら、それは超人の中身としては嘘になる。凡人の範疇を越えていないということになってしまうのだ。

 つまるところケーンとは、決して観客に“理解されない”者でなければならない。もっと言ってしまえば、ラストシーンで嘯く者と彼に頷く者たちにとってそう見えるのと同じように、観客には空洞であると誤解されなければならないキャラクターなのだ。

 もちろんそうは言っても、単に空洞に見えればいいというわけではない。単に空洞なだけの凡庸なキャラクターなら、凡庸な作家達により日々量産されている。ではこの映画は、“理解されてはならない”、いや“理解されることのない”ものを表現するために、どうしたか?

 ケーンの感性、思考、価値観、そして彼にだけ見えていたであろうもの、それらこちらの理解を越えるはずのもの、その存在だけを匂わせるべく、外輪には圧倒的なリアリティをもたらしつつ、本丸、すなわちその中身が何なのかはついに明かさない。そこまで辿り着かせない。辿り着かせないことで、不在と結論づけさせない。隔絶と沈黙だけが残る中で。逆説の物語を徹底した技巧により演出しきることで。全てはやはり、バラの蕾に象徴されていたのではないかということだ。

 もちろん自分も辿り着けなかった凡人の一人である以上、その中身を空洞に見える濃密であると断じることなどできようはずもない。ただの空洞でしかないという大方の見方を覆す最終的な根拠も持ち得ていない。永遠のパラドックスだ。

 それでも二つだけ確信がある。

 一つ、この映画が描いたのは、“普通の人間達にとってケーンがどう見えるか”のみだが、その“普通の人間達にとってケーンがどう見えるか”が鏡となって、“ケーンにとって普通の人間達がどう見えるか?”がちらりと見えた瞬間が確かにあった。

 二つ、オーソン・ウェルズは密かに、自画像と題さない自画像(しかも抽象画)を描いたのではないかという邪推、そう思わせるに充分な突発的、かつ歴史的、かつ非凡な“試み”であったということ。

(評価:★5)

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