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[コメント] 空の大怪獣 ラドン(1956/日)

ラドン』をラドンの映画と思って観る限り、殺人容疑→メガヌロン→ラドンという、ぶっとびの三段サスペンスが消失する逆説の哀しさよ!
kiona

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 映画そのもの以外から映画にアプローチするのが嫌いな自分は、監督に関する研究本などは、大好きな黒澤監督のものでさえほとんど読まない。それでもちらっと開いてみたことがあるのは、『影武者』のコメントで言及した土屋嘉男統制官がお書きになった著書ぐらい。(失礼なことに題名も忘れてしまった)しかし本多猪四郎という監督に関してだけは、本人が一人の作家として何を考えていたのか是非知りたくて、機会があれば探してみるのだけれども…インタビューをまとめた本はほとんど見あたらない。いかにこの人が作家として不当な扱いを受けてきたかが解る。これでは、ご本人が個々の作品をどういう風に持っていこうとしたのか、多くの作品について謎は謎のままだ。

 自分が誰よりも本多監督に惹かれるのは、しかし、この謎があるからだ。例えば『ゴジラ』に反戦のメッセージが込められていたかどうかだって結局はわからない。本多監督の作品を観るというのは、自分にとってはシェイクスピアを読むのと似ている。シェイクスピアというのは翻訳が屁の役にしか立たないぐらい謎だらけで、理解は千差万別、ほとんど誤解の上に成り立っていたりもする。つまり解釈するしかない楽しみがあるのだ。

 同じように本多作品、この『ラドン』にも大きな謎がある。例えば何故、自衛隊による山崩しが決定される場面を、決定する奴らが憎らしく思えるほど、あんなにくどくやったのか。何故ラドンが死んでいくとき、自衛隊が意気揚々と撤収する傍らで、佐原健二らはあんなに沈んだ表情をしたのか。そして何故その本編演出が、特撮班の偶然が産んだに過ぎない特撮シーンに見事にマッチしていたのか。

 そもそもこの映画、脚本だけ考えたら、迷惑に飛び回る原始的なバカ鳥はぶっ殺せ! ムービーである。おそらく脚本自体は、人類が近代兵器で怪獣を撃退するカタルシスを売りにしようと書かれたはずなのだ。ところが出来上がったものは、何故か近代により駆逐される古代或いは前近代の哀しさみたいなものが出てしまっている。そんなものあるかい! と思うかもしれないが、この作品を同監督の『大怪獣バラン』と見比べて貰えれば解ると思う。『バラン』にはなかったような、脚本或いは企画が内包する盲目的な近代科学礼賛への、演出による抵抗が見え隠れしているから。

 或いは、そういうものが全くなかったとしよう。それなら我々が決まり文句のように口にする、怪獣映画は科学文明へのアンチパシーを持っていなければならいという発想はいったいどこから出てきたのだろう? 『ゴジラ』? あの問題作をあそこまで傑作悲劇に仕立て上げたのは、最終的には円谷ではない、本多だったはずだ。

 本多をほとんど偶像視さえしている自分は思う。往年の怪獣映画に見え隠れするペーソス(のようなもの:あくまで“のようなもの”であるから素晴らしい)は、偶然の産物ではなく、本多自身が意識するとしないとに関わらず、インタビューなどの表面には決して出てこない地底で巻き続けた種子なのであると…。

本多猪四郎…この人は特撮、SFX、VFXエンターテイメントのシェイクスピアである。

(評価:★5)

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