[コメント] キューポラのある街(1962/日)
吉永小百合が時代から必要とされ、それに応え絶対的な光芒を放つかのように、彼女が「あの時代」を体現した映画。日本にこんな少女は二度と育たない!!
彼女はともかくも、あの日本人みなが(もちろん在日も含めて、だ)団結してともに成長していった時代を体現していたのだと思う。今とは違う、社会主義の果てに明るい未来が約束されていた「筈だった」時代。闘うことによって確実に何かが手にできた時代。彼女はその中にあってこその、手を携えてゆける「高嶺の花」というまことに稀有な存在だったように感じる。
そう、彼女は民衆の中にいた。その中で超然としていながら溶け込んでいかれた。この映画で「あたい」「父ちゃん、母ちゃん」という、現代ならギャグでしかお目にかかれない呼称を彼女は衒うことなく使い、そのたびに自分は今存在し得ない60年代の理想たる少女を想い、憧れた。彼女があの時代の空気を吸い、それを己のなかで暖めてふりまいた幻想に、自分は酔ったのだと今にして思う。
二度と日本にこんな少女は育たない。貧しさに美しさはなく、団結はリーダーの独裁を生むことを見せつけられた時代に。必然であるが、淋しいことでもある。
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