[コメント] 戦場のピアニスト(2002/英=独=仏=ポーランド)
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藤田嗣治という画家がいる。エコール・ド・パリの一員として母国でもフランスでも高い評価を得ていたが、戦時中日本に帰国させられ、国威発揚絵画を量産することを余儀なくされた。結局日本は敗戦し、藤田は戦争協力者として日本画壇を追い出された。以後、彼はレオナール・フジタと名乗ってフランス国籍を得、二度と母国に帰って筆をとることはなかった。
芸術家とはよくてそんなものだ。絵画ならば国民の士気を高めることに寄与できようし、ブラスバンドに加わり得る演奏者ならば戦意を鼓舞するマーチを演奏することもできる。だが持ち運びに適せず、雑音のなかでは聴き取りづらいピアノは戦争の場においては無力だ。ピアニストなどは時の権力者に取り入ってその演奏を愛でてもらえる場を作ってもらえでもせねば、およそ存在価値などあったものではない。それゆえに主人公は、平和時のスターであり得ても戦場では何もできぬダメ人間である。家族や友人が収容所に護送され、あるいは惨殺される場面において、彼はそれを阻止することができない。当然である。ピアノを弾くためだけに完成された彼の指は、彼自身を救うことさえ至難の業であるのだから。よって主人公は、身を寄せた男女があっけなく殺されてゆくなかを、ただゴキブリの如く這い回ることになる。
そんな彼が一度だけ力を発揮できる機会を与えられる。潜伏先でナチスの将校に発見され、一曲弾くことを所望された時である。主人公は力の見せ所とばかり、震える指をものともせず一世一代の名演奏をする。将校はその腕に感動したように見え、主人公を見逃してやる。主人公の腕が彼自身を救い得たのだ…という幻想はのちに見事に裏切られることになる。戦犯として捕らえられた将校は、主人公の知り合いに「私はあの男を救ってやったのだから」と命乞いするのだ。真正の感動を得た者がそんな台詞で誇りを投げ出すだろうか。結局、ピアノは戦場においてひとりの人間を変える武器にすらなり得なかったのだ。
だが、それゆえにこの映画はくだらない試みだった、という気はない。戦乱の世にしか生きられぬ人間があるのだ、平和な時代にしか生きられぬ人間がいてならない理由はない。ラスト、演奏会でステージの中央にあって一曲を弾き終えた彼は、万雷の拍手に応えて最高の笑みを浮かべた。彼が活躍できる場があるということは、その国が平和であるという証拠だ。彼がコックであっても、文士であっても同じことだ。彼が生きられる場所がある。母国が今そうであることを、ポランスキー監督は何事にもまして喜んでいることと思われる。
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