[コメント] グラン・トリノ(2008/米)
実を言うと、冒頭の妻の葬儀から主人公の頑迷なキャラクタや子や孫との確執を呈示するシークエンスのベタさに、うわっイーストウッドどうしちゃったの?と少々心配になった。
そこで感じたベタさへの違和感は最後まで拭い去ることができなかった。この映画が西部劇の話法に殉じていることは然程西部劇を観込んでいない自分でも気づくことはできる。それにしても、例えばイーストウッドがモン族の隣家に心許し始める端緒に感じられる唐突感や、自分はフォードの自動車工だったのに息子はトヨタのセールスマンという設定の安易さ、その息子たちとの確執の回収に対する無頓着さなど、『ミリオンダラー・ベイビー』や『チェンジリング』で見せた厳格なディレクションに比べると、その脇の甘さというか大らかさにいささか戸惑いを感じるのである。
しかし、そうはいっても、この『グラン・トリノ』がそれらの作品とは異なる魅力を湛えていることも認めなくてはならない。特筆すべきはそのユーモアのセンス。タオやスーと心通わせていくプロセスにはだれもが好ましさを感じるだろう。イタリア系の床屋で繰り広げる「男同志の会話」のレクチャーの件りなど、愛さずにはいられないダイアログに充ち溢れ、そこにチンピラグループの存在や病の兆候など不穏な空気を差し挟んでいく技量はやはり見事。結局はここでもまた画面から目が離せなくなるのである。そう考えると、全編に通底する脇の甘さも計算されたものなのではないかという気がしてくるのだから、イーストウッドの術中にまたもや嵌ってしまったのだろう。
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