[コメント] ミリオンダラー・ベイビー(2004/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
「選択すること」そのもの、つまり「自分自身であり続けること」についての映画だった。
ボクシングも尊厳死も、それを語るための材料に過ぎない。
「俺があのとき試合を止めていれば…」とスクラップの失明に責任を感じているフランキーの情の厚さはとても好もしいが、彼は間違っている。なぜならスクラップは片目を失ったが、全力で戦った自分の選択を全く悔いてはいないからだ。そして、スクラップと同じように生きたいボクサーたちは、だからフランキーの元を離れていく。彼らは冷たいのではない。“頑固者”揃いのボクサーたちは、自分の思うように生きたい、それだけなのだ。
未来の事は誰にもわからない。今タイトルマッチに挑戦したら、力不足で負けるかもしれない。無謀な戦いに挑んで、選手生命を絶たれるかもしれない。でも、もしかしたらチャンピオンを倒してタイトルを奪えるかもしれない。
首から下が動かない身体でも、生きていることはそれ自体であまりにもかけがえがない。不自由な身体でも素晴らしい体験はいくらでもできる。生き延びればいつかは、治療方法が見つかるかもしれない。でも、一生この身体のまま生き続けなければならないかもしれない。そのように生きることが、彼女にとってどういう意味を持つのか。それは、彼女自身が決めることでしか有り得ない。
未来の事は、誰にもわからないのだ。成功するかもしれないし、失敗するかもしれない。それでも人は、どう生きるかを選ばざるを得ない。自分の思うように生きるしかない。それが「自分自身であり続けること」、つまり「人間の尊厳」というものだ。
フランキーは、マギーと共に戦う中で「人間の尊厳」を見つけた。どこまでも思うように生きるマギーの中に、あるがままの「人間の尊厳」を見た。だから「質問をするな」というルールを自ら破って彼女に「飛行機で行くか車で行くか?」を選ばせた。「モ・クシュラ(愛しき人、汝は我が血なり)」という言葉を贈り、彼女の最後の望みを叶えた。それは彼自身もまた、最後まで彼自身であり続けることだった。スクラップへの、娘への、マギーへの、罪の意識を背負い続けた彼は、そのようにしか有り得ない男だった。だから、マギーの望みを、他の誰でもない自分自身の手で叶えたのだ。
(05.07.11@梅田ピカデリー)
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