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[コメント] 板尾創路の脱獄王(2009/日)

堂々たる処女作。(10.02.24@シネマート心斎橋)
movableinferno

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







國村隼先生演じる金村が、十二年ぶりに鈴木と再会する場面。國村先生の高鳴る靴音は、まるで心の高なりのよう。ふと差し込んだ光に、我知らず惹きつけられ独房へ近づきその小窓を開ける。その偶然こそ、運命。たった一瞥、声を交わし合うこともない再会。そこで、これは恋の映画だ、とわたしは理解した。

幼き日の鈴木が、鉄棒へぶら下がり目に焼き付けた逆さ富士。鈴木の胸に彫り付けられたその図案は、しかしその肌にのみ刻まれたのではなく。人生そのものへの刻印であったことがわかるとき、やはりこれは恋の、燃えるような恋慕の映画だと確信した。

…というようなことは、当の板尾監督はあまり意識していないような気はしますが、とにかく、脱獄映画として「自由を追い求める」という定石的主題を敢えて避けようとした結果、このような情念の物語にたどり着いたという、その意外なほどのストレートさはうれしいおどろきでした。そして、意外なほど十全に映画的であることも。(この点において「クリエイティブディレクター」としてクレジットされている山口雄大監督がどこまで携わっているのか興味深いところです)

闇と光の使い方、見せるものと見せないものの選別、「逆さ富士」や「鉄格子に滴る血」などの鮮烈なイメージ、そして役者たちの顔。しかし思い返してみれば、板尾創路とはそもそも、映像の人でなかったか。彼はおそらく一般に「シュール」な芸人として認識されているでしょう。その「シュール」=「わけのわからなさ」の由来は、彼がほとんど「どのようにおもしろいか」を説明しないことにあります。そして、映像ほど「わけのわからなさ」をたたえたまま、それでいてきっぱりと何かを伝えるメディアは他にないのではないか。その画が「何を意味するか」はわからなくとも、「画」そのものは網膜に像を結ばずにはいない、という具合に。板尾創路、と言えば誰もが真っ先に上げる仕事「シンガー板尾」の「唄」も、常になんらかのイメージを喚起させるものではなかったか。そう考えれば、また、役者として映画の現場で仕事を重ねてきたことを鑑みれば、「意外」などと思うことこそが不見識であったのかもしれません。

むしろ、これほど潔く、わかりやすいものをつくり上げた、つまり「映画」として整えてきたことこそを驚くべきなのでしょう。正直、唐突な歌唱シーンが訪れたときは、ああ、松ちゃんと同じ轍を踏むのか、と心が萎みかけましたが、それもこの映画の一部としてきちんと機能していることがわかったとき、この人は映画を撮ることから逃げなかったんだな、と直感しました。(どうしても比べてしまうのですが)松本人志監督は『大日本人』で映画から逃げながら映画を撮った。しかし板尾創路監督は、映画に真っ向から取り組んだ。「映画」のリングに上がった上で、板尾創路の試合をして見せた。だからこそ、この映画のオチはこれ以外にはありえない。

どういうオチになるか、は板尾先生があるところへたどり着いたときに誰にも予想がついて、わたしはでも、そのオチはいやだな、と思いました。しかし、しかしですね、そのオチが映像として具現化したとき、それを目にしたときわたしは「ああ、これでこそ板尾創路の『映画』だ。なんと堂々たる処女作だろう!」と感嘆してしまったのです。國村先生のあの科白、そして板尾先生と松之助師匠のあの微笑み。二人の老人の薄い胸に刻まれている/いないもの。それはまさに板尾創路の世界観そのものであり、また映像として立ち現れたときにこそ圧倒的な強度を示すものであるということ。つまり、これが純然たる映画であるということ。…板尾先生ったら凄すぎるうう!話が違う!

もちろん、拙いところもあります。回想シーンの最後のモノローグはあからさまに説明科白になってしまった。宗教的モチーフは使い方がおざなりすぎる。あれじゃ死んでる、とか、いつ鍛えたんだ、とか、そのパ○○○○ダーどっから持ってきた!とか辻褄の合わなさ過ぎるところがある。でも、それもひっくるめて、堂々たる、本当に堂々たる「処女作」だと思います。

最後に特筆事項としてはキャスティングね。ほぼ全員文句ない。出色はぼんちおさむ師匠と松之助師匠ね。もう、ふるいつきたい。あとねえ、どういうお積りか存じませんが、そもそも自分を追わせるお相手に國村隼先生をお選びになるなんて板尾先生ったらもうもうっ☆と申し上げたい。さらに國村先生のあられもないお姿があまりにあまりで、もう堪忍していただきたい。あまつさえ、鈴木と父親とのふれ合いの場面には不穏なほどのエロスが漂っており、板尾先生どういうお積りかとやはり詰め寄りたい。しかし板尾先生のデレ(國村先生が休暇中に云々)はちょっとやり過ぎではないかと再度詰め寄りたい!

(評価:★4)

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