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[コメント] 大いなる西部(1958/米)

ペックはパターナリズムに毒された策士だ、このような人物を、他人を教化しうる清廉な人物として描くことには表現上の欺瞞を感じる。しかしながら、貧富や人間の清濁さといった概念を上方と下方の対比としてビジュアル化したワイラーの表現・演出力は、黒澤の『天国と地獄』にも決して劣らない。
Kavalier

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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高低の概念を表すの表現の多用がどれも素晴らしい効果を上げている。砂漠を舞台にした映画で、これだけクレーン撮影を多用した映画はちょっと他には見あたらない。

例えば、バール・アイブスが、披露宴のパーティに怒鳴り込むシーン。彼はパーティの出席者より、ほんのわずかだが高い段差の上に立ち、パーティの列席者を代表する少佐と対峙するのだが、アップのショットの応酬は、単なる正面からのカットではなく、バール・アイブスは呷り気味に、少佐は見下ろし俯瞰気味に描いてみせる。これはアイブズが金持ちの列席者を圧倒している様を表すと共に、どんなゴミ溜めみたいな谷底に住んでいようと、人間としての高潔さでも彼らを圧倒している様を描いていないか。

逆に、グレゴーリー・ペックがジーン・シモンズと共に、運河を見下ろして、この地の生命線である運河の所有権を決めてしまう、多くの示唆に富んだシーン。

谷間での、長年の遺恨を抱えた2人の老人の対決。そして、決闘後のそれを上空からのショットで描いて見せる様には、旧時代へのワイラーの容赦のない仕打ちに不快感を感じる。

このような、高低の概念の多用と、バストショットの多用での役者の演技を十全に出し切るワイラーの演出に非常に酔いしれた。

主人公?、最初から最後まで逆玉野郎としか思えんかったあんな奴はどうでもええわい。つまる所、主人公への不快感は、失われていく西部への哀愁みたいな物を、前述の老人殺しのシーンのように描いてしまう映画のスタンスへの違和感からではないか。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)けにろん[*] ぽんしゅう[*]

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