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[コメント] 汚れた血(1986/仏)

様々な映画的身振りに彩られた「距離」の考察。シネアストは贅沢な表現がお好き。
ゴルゴ十三

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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呆れるほどの美しさと徹底した陳腐さが共犯関係を形成する。電気剃刀から取り出された髭くず、拳銃、あざとくペンキ等で彩色されたファサード群、視線の行く先(勿論それを同定することはナンセンスだ)が判別しない「女」の顔、フレームに入る全てのものが等しく肯定される。また全てのシークエンスにおいてもそうなのだが、それは「ハレー彗星の接近による熱帯夜」、「愛のない性交で伝染する奇病」といった陳腐さにおいてそうするのだ。

私は、この共犯関係に劇映画なるものの延命措置を認めてはばからない。それによって、本作は映画が久しく忘却する「古さ」を正しく喚起せしめ、同時にその解体を擬する身振りをあたかも正当化するから。チャップリンキートン(勿論この二人だけではない)が映画の創成期に輝かしくもその名を残すのは、彼らがフィルムの運動においての身体の再構成を試みたからに他ならない。あの再生速度と彼らの喜劇に仮構する卓抜な身体作法の間には、必然的な連関が認められるわけだ。しかしそれは徹底した「古さ」を刻印されている。したがってカラックスは、この「古さ」を正しく現在に召喚するためには、愚直なまでの審美主義と徹底した陳腐さを必要としたわけだ。そしてその解体を「フィルム・ノワール」と「メロドラマ」に仮託して行うしたたかさを見よ。以下その試みを検証してみよう。

「男」と「女」は視線を受け渡さない。ここには見る/見られることによって執り行われる切り替えし(実際はその逆だが、ここではそれに触れない)がない。ただ正面性の強いショットにおいて、二人の視線が交錯するだけだ。いまとなっては形骸的な流行の感が否めない黒味の多用も、ここでは両者の間の断絶を正確にしるし付ける。「男」はフレームに対して水平に疾走するわけだが、それはこの断絶が乗り越え不可能なものでなく、遠大ではあるが有限の距離をもつことを確認したいがためなのだ。恋愛という異名を持つ、この距離の肯定。

しかし「女」は「運命の女」ではなかった。そもそもこの二人の間に距離は成立しえなかった。したがって、「女」のフレームに対して垂直方向をとる疾走は、在りもしなかった距離の捏造といった意味合いを帯びる。再生速度と光量の自由な操作によって、つまり表現が獲得すべき必然性ではなくその贅沢さにおいて、そのような距離、または映画が差し出す空間性一般が、フィルムの運動が紡ぐ幻想であることを表層的にだが暴露しつつ。

(評価:★1)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)3819695[*] ジャイアント白田 けにろん[*]

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