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[コメント] 三度目の殺人(2017/日)

力のある映画だ。力のある画面の連続だと思う。これをオリジナルで造型している、ということの価値を認めなければならない。ただ、前半の印象的な科白で、「映画には理解や共感はいらない、友達になるんじゃないんだ」というようなことを福山が満島に云う。
ゑぎ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 ウソ!実際は「映画に」ではなく「容疑者に」なのだ。なのに、後半、福山雅治は容疑者の役所広司を理解すること、共感することに腐心し、汲々とする。ま、それはいいとしても、私は「映画は理解や共感するものではない」と思っているので、本作の作り手が、特に後半になって、観客が理解しやすい説明的な画面作りを志向してしまう、この点についてはひっかかる。

 説明的画面作りとは端的には、あの接見室の仕切りの透明板(アクリル材?)の反射を利用した、福山雅治と役所広司の顔面のオーバーラップを指している。さらに、「器」というキーワードの提示が説明を補強する、二人の人間の(或いは、観客を含めた人間一般の)、役所との同化のイメージ喚起。私も、この画面は強烈だし、昂奮させられもしたのだが、しかし、観客全員が、何をやろうとしているか明々白々な、超説明的な画面だと思うのだ(さらなる深読みは、人それぞれ可能でしょうが)。透明板に二人の顔を重ねるシーンは、実は中盤とエンディング近くと2回あるのだが、私はいくらなんでも、2回目はやり過ぎではないかと思ってしまった。さらに云えば、「器」の話も留萌での品川徹の科白だけで、いいじゃないか、とも。

 前半で理解も共感も不要、と宣言した福山が、徐々に変貌する(留萌への出張など不要と言っていたのに、結局行くことになる等の)見せ方自体は小さな驚きの積算に繋がっている面は認める。

 さて、画面の強さは、全体にローキーを基調とする画面の重々しさに多くを拠っており、さらに複数人物のロングショットやバストショットで見られる、緩やかな(気が付かないほど緩やかな)パンニングや、ステディカム移動のカットも指摘すべきだろう。

 また効果的な視点移動も多々ある。空を意識させるシーンや、人物が見上げるシーンも多い。ドローンの使用は、タイトル明けの川面から、道路を走る自動車へのカットや、留萌へ向かう導入部の列車のカット(まるで、ハリー・ポッターシリーズのよう)、夢の中で、雪に寝転ぶ三人の真俯瞰等だろう。ラストカットの福山の俯瞰もドローンか。見上げるシーンでは、公園で二人で会話するシーンの、風で揺れる木の枝。接見室で、カナリアが飛んでいく様子を思い出して、部屋の上方へ目をやる役所と、役所が見た方向を振り返って見つめている福山。この福山のカット挿入は驚きがあり、かなりキャッチする。あと、早朝の光に手をかざす場面や、役所が拘置所の窓から鳥に餌をやろうとする場面、そしてラストの福山が見る空。これらは、ある種、形而上的な感覚を醸成する、と云ってしまえば、ありきたりな感もするが。

 それと、この映画は3組の親娘の映画であると云えるし、3人の娘の映画であるとも云えるのだが、特筆すべきは、生きているはずの役所の娘が画面に登場しないことで、それなのに(だからこそと云うべきか)、かなり存在感があることだ。普通なら、というか観客は皆、留萌のシーンで役所の娘が出てくると思っていたのに、はぐらかす。これにより、不必要なノイズをプロット展開に持ち込まず、広瀬すずと役所との関係を際立たせることにもなっている。このデンで云うと、3組とも親は片親しか描かれない、という点も重要だろう。また、広瀬すずもそうだし、福山の娘−蒔田彩珠も「嘘つき」として造型されているのだが、例えば、広瀬の跛行(俗にいう「びっこ」)の真の原因が分からないのと同様に、福山の娘の「嘘泣き」は演技によるものとは云え、涙を流させた真の理由(心持ち)は分からない。裁判後の福山の目に浮かぶ涙も同じだ。こういうところ(福山親娘の涙の反復)も、原因や理由は深読みはできるとしても、描き方としては説明的と見ることもできるだろう。

(評価:★4)

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