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[コメント] マダムと女房(1931/日)

映画の至福。教科書的知識の取得だけで見るべき映画では全くない。まずこんなトーキー最初期から音の使い方が実に洗練されていて驚かされる。
ゑぎ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 本作のシノプスは「劇作家の渡辺篤が仕事中(執筆活動中)に周りの騒音とどう付き合うか」というまとめ方もできると思うが、猫の声、子供の泣き声、妻・田中絹代の怒鳴り声、隣家のジャズ演奏など画面内外に音が満ちており、特に画面外の音の機能のさせ方は実に成熟している。そしてラストのラストは渡辺が田中絹代に耳打ちし台詞を隠蔽してしまうという皮肉と洒落っ気。愛すべき稚気だ。

 そしてさらに感心したのが縦横無尽に画角を操る画面造型だ。もう冒頭から目を瞠ってしまう。ファーストカットはロングの田園風景とチンドン屋。かすかにチンドン屋の笛の音が聞こえる。次に画家の後ろ姿へ2カットのディゾルブでの寄りの繋ぎ(移動撮影)があり、画家の正面に切り返すとカメラは後退移動するのだ。格好いい!そしてこの後の画家のカットは望遠レンズじゃないか。或いは田中絹代が布団に寝ころがったまま渡辺に向って怒鳴るカットはアップで切り取られる。こゝなんかは見事に音の演出に呼応させた構図の選択だが、このアップカットは室内シーンだが望遠レンズのように見える。また、隣家にジャズ演奏の音がうるさいと文句を言いに行く前の渡辺と田中とのやりとりは、これも望遠レンズが使われているように見える。さらに云うと望遠と標準の2台のカメラで同時に撮影されたマルチ撮影演出に見える。本当だろうか?マルチ撮影に匹敵するアクション繋ぎをやってのけているのだろうか。いずれにしても私は本作の画面造型の洗練にも実に興奮させられたのだ。

 さて。先に書いた全編に亘る騒音・ノイズの演出と、ラストの耳打ちによる観客に対する音(台詞)の隠蔽について再び触れておきたい。五所平之助は後年の『煙突の見える場所』(1953年)でもシチュエーションは全く違うが、これらの音の演出をそっくり反復している。つまり『煙突の見える場所』も主人公−上原謙と田中絹代の周囲で発生する騒音の映画であり、ラストは上原から田中への耳打ちで終わる映画だ。エンディングの幸福感も近しいものがある。ただ、上原から田中への囁きは、観客にとってはその状況からある一つの提案であることが明白に理解できるように演出されているのだが、対して本作『マダムと女房』で渡辺から田中へ囁かれる台詞は一見いかようにも類推することができるものだ。1931年当時の観客は「何が囁かれたのか」の議論を楽しんだことだろう。だが『煙突の見える場所』も既に見てしまった観客である私は、本作のラストの渡辺の台詞も上原の台詞と一言一句同じ台詞であると確信する。時系列で云うならば、五所平之助は少し曖昧に受け取れた渡辺の耳打ち台詞を上原を使って種明かししたのだと思う。そう確信しながらエンディングの「私の青空」の幸せを味わった。ついでに云うとジョン・フォードの『静かなる男』(1952年)の大団円でジョン・ウェインからモーリン・オハラへ耳打ちされる台詞も同じものだと確信する。私は遅れてきた観客で、好き勝手に思い込んでいるだけかも知れないが、だからこそ感得できる幸福というものがある。この耳打ちの演出の連関は間違いなく映画の至福である。

#ここからは備忘

・タイトルバックのマーチは「双頭の鷲の旗のもとに」。

・渡辺篤は『巴里の屋根の下』の音楽を口笛で吹きながら登場する。

・風呂屋から伊達里子が登場。この後シーンの車の男が坂本武か。

・薬の押し売りは日守新一。顔にあざのあるメイク。

・隣家のジャズ演奏仲間に井上雪子がいる。

・隣家の壁に『MadameX』 Ruth Chattertonと読めるポスターが見える。

・隣家をあとにする際の音楽は「ブロードウェイ・メロディ」

・やきもちを焼く田中の台詞「近頃のエロでしょ。エロ100パーセントでしょ」

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)ぽんしゅう[*] KEI[*]

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