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[コメント] ストレイト・アウタ・コンプトン(2015/米)

ギャングスタラップが普通の伝記映画になってるので驚いた。N.W.A.を同時代で聞いた訳では無かったが、ドレやスヌープのファーストアルバムは発売当時に買った記憶がある。当時はラップやGファンクの楽しみ方を理解出来ていなかったが、今なら判る。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ギャングスタラップというものはクラックという麻薬のために勢力を急拡大していたアメリカのストリートギャングの描写が歌詞の主たるテーマだ。音楽評論家の鈴木哲章はこう述べた。”ヒップホップは主流文化の価値観をエキスにまで煮つめて、強調しているに過ぎないのだ。暴力、物質主義、女性蔑視、ホモ嫌い、人種偏見....どれもアメリカの主流社会を影で支えてきた価値観にほかならないし、それらがヒップホップに共通した金儲けになるテーマなのは、すべてのアメリカ人が共有した金儲けになる妄想だからなのだ”

だから、この映画はギャングスタラップを美化しているし、正直醜悪な部分を隠しすぎだ。ギャングスタラップの暴力は物凄く誇張があるとはいえ、表現内容に問題はある。

アフリカ系アメリカ人や保守リベラル問わずヒップホップが俗悪であり弱いものいじめであるという批判には勿論、それなりの妥当性があったのだ。

ただ、聴衆はギャングスタラップが俗悪であるとういうことを踏まえたうえで、そのギャングスタラップが紡ぐゲットーの世界観が黒人の日常生活に興味を持たせた。それは初の黒人大統領を産むことに繋がっていた筈だ。

ナンシー関というコラムニストがお笑いについて書いた文で、お笑いというのはそもそも強いものを叩いたり皮肉を言ったりするようなものは多く無く、弱いものいじめのほうが面白くなりやすいと書いていた。それは事実であるが、同時にダウンタウンを褒める際に世間的に良しとされる田村亮子を良しとしない物差しの設定位置の高さを褒めていた。

個人的にお笑いだったり、音楽だったり、評論だったりに価値や面白さを感じる点は自分で認識していた物差し(考えの型)を覆された時だ。(ナンシー関は”世間”の人が気づかない物差しを扱える人間だった。)ギャングスタラップも醜悪そのものであるという批判を受けながら変わってきた。ウータン・クランがグラミー賞で彼らのラップは平和のためだと言って笑われ、キラー・マイクはバーニー・サンダースの応援演説をする際に何故ギャングスタラッパーが政治を語るのかと批判された。

そういった絶え間無い批判との間でラップ表現とその物差しは磨かれていった。ギャングスタラップにおけるNワードやBワードはそれぞれ黒人と女性に対する侮蔑表現だが、ヒップホップの中ではそれを誇りの象徴として昇華する表現も出るようになった。(古典的な侮蔑の意味で使っている場合も多いので誤解はしないように。Nワードはエミネム等白人ラッパーが使って良い言葉では無い。)

俗悪な表現から出発し、それを他者の意見を汲みながら違った表現にまで至ったのがギャングスタラップだ。現にオバマはNワードを使うラッパー達のファンだと表明している。ギャングスタラップ及びヒップホップの影響はそういった部分には留まらない。現在のアメリカの言語感覚、リズム感覚やファッションスタイルはヒップホップ抜きに語る事は出来ない。だからこそクラック売りの末に死ぬか逮捕されてしまうチンピラ(サグと言われギャングスタラップの主要な題材の一つ)から黒人になりたい白人や日本人のBボーイまで見据えた映画を観たかった。

次のヒップホップ映画はツー・ライヴ・クルーを題材にして、ティッパー・ゴアを出してエクスプロイテーション風にして欲しい。で、立川で爆音上映でもすれば良いかな。(私はウーファー持ってるので自宅で見るが。)

(評価:★3)

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