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[コメント] セッション(2014/米)

最後のコンサートの演奏シーンは圧巻。その思惑がどういうものだったのか、ということが気にならなくなる。これがあるからこそ、たった一つのことに己のすべてを費やす覚悟と生き様の美学を感じさせる。
シーチキン

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







本作では伝説的な名ジャズプレーヤーがかつてシンバルを投げられたことに奮起したエピソードが一つのバックボーンとなっているように思える。

ただ、シンバルが投げられた時、投げた方は相手の上達とか成長とかを願って、期待して投げているのだろうか?単に腹立たしさにかまけて、怒りの表現の一つとして、粗暴で乱暴な振舞いとして、そうしているのではないだろうか?

それを投げられた側がどう受け止めるのか、というのは大事な問題だというのはわかる。が、シンバルを投げるというのは、その行為の程度によって相手がどのくらい怒っているのかがわかるというくらいの意味しかないように思えるし、それをされた相手が、自らの至らなさを自覚して奮起したとしても、それは結果オーライでしかない。

至らないところ、未熟なところを、「がんばっているから」とか「グッドジョブ」の一言であいまいにし、隠すようなやり方はダメだ、というのはその通りで、それが練習であれ、本番の場であれ、大事だし、それを指摘する者が、教える者であるのか、共にプレイする者であるのか、それともただの傍観者であるのかは、あまり関係がないと思う。

でも少なくとも、教育の場であるならば、未熟な部分を指摘し奮起を促す方法が、シンバルを投げるようなやり方しかないというのでは、それはその人物の教育者としての未熟さの証明でしかないよね。

本作の主題とは少し外れるとは思うが、なあんてことを考えてしまった。そしてそういうことを考えてしまったから、このこと以外は満足できたのだが、☆5にはならなかったのかな。

(評価:★4)

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