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[コメント] ゴースト・イン・ザ・シェル(2017/米)

士郎正宗の原作漫画『攻殻機動隊』ではなく、押井守監督の映画『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』の実写化である本作品は、主人公たる少佐の苦悩を押井作品とは別のものに変えてきた。その苦悩は、同時期に公開された『ブレードランナー2049』と同期する。
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士郎正宗の原作漫画『攻殻機動隊』(以下、士郎攻殻と略す)ではなく、押井守監督の映画『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』(以下、押井攻殻と略す)の実写化である本作品は、主人公たる少佐の苦悩を押井攻殻とは別のものに変えてきた。その苦悩は、同時期に公開された『ブレードランナー2049』の主人公レプリカントKの苦悩と同じものであった。

そのことによって、本作は過去のどの攻殻機動隊/GHOST IN THE SHELLの焼き直しでもない全く新しい攻殻機動隊『ゴースト・イン・ザ・シェル』になったのだが、この「苦悩」の換骨奪胎は、アメリカ映画が、ファッションとして以上には『攻殻機動隊』を自らのものとして取り込むことはできないという信仰告白になっている。日本的なゴーストは、ハリウッド的なゴーストに融合できなかったのだ。

押井攻殻は、士郎甲殻にアイデンティティに悩む少佐という設定を持ち込んだ。少佐(素子)がバトーに悩みを語ったときのセリフは次のとおりである。

「もしかしたら自分はとっくの昔に死んじゃってて、今の自分は電脳と義体で構成された模擬人格なんじゃないか、いやそもそも初めから私なんてものは存在しなかったんじゃないかって。自分の脳を見た人間なんていやしないわ、所詮は周囲の状況で”私らしきもの”があると判断しているだけよ。もし電脳それ自体がゴーストを生み出し、魂を宿すとしたら?その時は何を根拠に自分を信じるべきだと思う?」

義体は偽の身体である。素子が人間である拠り所は自分の人格であるのだが、それが人間由来のゴーストや魂によるものではなく電脳由来であるのではないかという恐れを抱いている。つまり、精神が人工であるかないかが押井攻殻の少佐の不安になっている。

上記の少佐の問いに対し、バトーは「くだらねえ」と返す。魂が人工か天然かをバトーは深刻には考えない。そしてその態度は、士郎攻殻の少佐の態度でもある(原作p.104に同様のセリフがあるが、それは義体のドクターとのパフェを食べながらの談笑のシーンであり、少佐はそれを言ったあと青ざめながらも「へへへへへぇ」と笑っている)。

この改変により、押井攻殻は作品に哲学的な陰影を深めることに成功したが、同時に少佐の精神年齢を引き下げてしまった。少佐の心を自分が何者であるかを悩みつつ日々を熱く生きる少年少女のようにしてしまったのだ。

そもそも義体は人体のように老いるとは思えないので、精神年齢と肉体年齢は一致させる必要が無い。押井の改変は、攻殻機動隊の世界観を破壊するものではない。だが、ジュブナイルな攻殻では大人の鑑賞に限界が生じてしまう。

ルパート・サンダース監督の実写版攻殻機動隊(『ゴースト・イン・ザ・シェル』以下、実写攻殻と略す)での素子の悩みは、自分の記憶が本当に自分が体験した記憶であるかどうかである。他人によって埋め込まれた偽の記憶かどうかという苦しみは少年少女期に特有なものではない。したがって、少なくとも少佐の精神性に於いては、実写攻殻は押井甲殻よりターゲットを広く取ることに成功していると言えるだろう。

問題は「アイデンティティと記憶」という改変によって生じた新たなテーマ(押井攻殻のテーマは 「アイデンティティと死」であったといえる)が、『ブレードランナー 2049』と全く同一になってしまったことである。

そして、ハリウッドでは「アイデンティティと記憶」をテーマにした作品が大量に製作されている。『キャプテン・アメリカ』『トータル・リコール』…etc. 記憶の真贋の他、失われた記憶を求めるものを含めれば、映画好きなら即座に5つや6つの作品が念頭に浮かぶに違いない。つまりこのテーマは受けるのである。

恐らくそれは、アメリカという国家が、歴史を接ぎ木された国家であることと無関係ではないように思う。歴史を記憶になぞらえることは、国家を個人になぞらえることである。移民や黒人などアメリカ人のアイデンティティに関わる事柄はすべて直視しなければならないしかし直視し難い歴史=記憶に結びついている。だから、人々は繰り返し「アイデンティティと記憶」の物語を求めるのであろう。「アイデンティティと記憶」は彼らの宿痾であり、恐らく彼らの良心がそれをエンターテインメントとし富の源泉として供給し続けているのではないかと思っている。

さて、最後に、なぜ実写攻殻の少佐の悩みの改変が信仰告白なのかについて。

そもそも士郎攻殻において魂が人工か天然かが深刻な悩みとならないのは、日本的な思考が森羅万象に魂が宿ることを認めるからである。

少年少女期に自分が何者かに悩むのは、少年少女期の一番の関心事が自分だからである。

日本ではアイデンティティは記憶の問題ではなく帰属の問題になる。自分だけが別のものに帰属することに少年少女期の自分は耐えられない。

だから、自分の問題として魂が人工か天然かを問題にする少佐は、森羅万象に魂が宿ることを認めないからではなく、自分だけが例外であることに耐えられないように見える。だから「くだらねえ」と返すのが適切なのだ。

大人は、自分の帰属は自分が決めるものではないことを知っている。大人は自分に生きているのだけではなく、社会に生きている生き物だからだ。そして生きている場としての自分と社会の比率は後者が高い。

森羅万象に魂が宿るとすれば、「電脳それ自体がゴーストを生み出し、魂を宿す」としても、宿った魂は自然の肉体に宿る魂と同質になる。社会がそれらを同質と見なせば、「自分を信じる」ことができようができまいが、社会が帰属を保証する。「へへへへへぇ」と笑ってまいっかで済ませることができるのである。

ところが、アメリカのように文化基盤がキリスト教である場合には、士郎攻殻のように「へへへへへぇ」と笑って済ませる問題にはならない。人間は神の被造物であり、人工物では神の被造物とはならないからだ。「電脳それ自体がゴーストを生み出し、魂を宿す」自体になっても、その魂は人間と同質とはみなされない。

キリスト教では、肉体と魂とは不可分である。ともに神が作ったものであり、人が作った人工物に魂が宿ることはキリスト教の枠から外れてしまう。義体であれば、もとは神が創った人間であり、肉体のパーツを換装しただけなので当然魂は天然だ。レプリカントは人が創ったものであり、それに人間と同等の魂が宿ることになれば、それはキリスト教の枠から外れる一大事である。だから『2036』『2048』『ブレードランナー2049』は荘厳な意匠を纏っている必要があった。

義体である少佐が、自分の魂が人工物であるかを疑うことは、キリスト教の文脈では義体であったかもともとロボットであったかを問うことと等しくなり、義体でない少佐という結末は『攻殻機動隊』の否定になるためありえない。故に鑑賞者の関心を結末まで引っ張る物語を作ることは難しくなる。つまり、キリスト教の文脈で『攻殻機動隊』を題材に義体の魂の人工/天然をテーマとしてエンターテインメント作品を作り上げることは無理筋な話であるし、それをやってのければ『ブレードランナー2049』になってしまい、やはり『攻殻機動隊』ではなくなってしまう。

攻殻機動隊』の物語の枠内では、少佐の悩みを「アイデンティティと記憶」に置き換えた方が、彼らにとってよほど筋がいい話しなのだ。

自分が何物かを問うことは、その問われ方自体がその答えになってしまうような問いなのである。そのことをゴーストは知っている。だからゴーストは自分にのみ囁くのである。

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