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[コメント] マッドマックス(1979/豪)

運命の輪。
たわば

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







タロットカードに「運命の輪(ホイール・オブ・フォーチューン)」というのがある。これは「運命とは、何か原因となる出来事(起点)が起こると、いくらそこから逃れようとしても、結局はしかるべき場所(結果)に戻ってしまう、そんな輪のような因果律を持っている」という観念である。これを念頭においてこの映画を見ると、この映画はまさに「運命の輪」を体現した映画であることがわかる。

映画冒頭のナイトライダーの死、これがマックスにとっての運命の「起点」となった。彼は暴走族を「狩る」ことに喜びを見出しており、暴走族がどうなろうと気にもしていない。この時点で、マックスはすでに良心が失われつつある状態だったが、彼には家族があったため、まだ正気を保つことが出来たのだ。マックスは妻ジェニーに「怪物」とからかわれ、怪物のマスクをかぶってジェニーのご機嫌をとろうとする場面がある。この場面により、「怪物」という言葉が映画のキーワードになっていることが推測される。つまり正気を失い「マッド」な状態を「怪物」として提示しているのだ。マックスがかぶる怪物のマスクには、暴走族の襲来の予兆(マスクはどことなくトゥーカッターに似ている)とともに、マックス自身が「怪物」に変わるという運命の予兆がこめられていたのだ。マックスは、V8エンジン搭載の「怪物マシン」に出会った瞬間、そのエンジンの咆哮に我を忘れて聞き入っている。後から思えば、これは彼の中に眠る凶暴な「怪物」が目覚める兆候でもあったのだ。

一方、町はナイトライダーの仲間が暴れており、警察との対立が激化する。マックスはナイトライダーを死に追いやった張本人であるが、暴走族の復讐のターゲットにはならず、直接には関係のないグースが犠牲になってしまう。このまま暴走族との戦いの中にいては、いつか自分も正気を失ってしまい、やがてはグースのような姿になってしまう、そう考えたマックスは警察を去る決意をし、家族を連れて旅に出る。しかしいくら遠くへ行こうとも「運命の輪」から逃れることはできなかった。「運命の輪」はマックスから妻子を奪い、彼を復讐へと駆り立る。妻子が暴走族に殺されたのは、ナイトライダーの死とは関係なく、暴走族にとっては通りすがりの親子を殺したにすぎない。しかしそのことによって、彼らは間接的にマックスに復讐を果たしたことになる。注目すべきは、それが彼らの意志とは無関係に成し遂げられている点であり、その事実はまさに「運命のいたずら」としかいいようがないのである。そして妻子を失ったマックスは、自宅で怪物のマスクをもみくしゃにし、ついに復讐へと立ち上がるのだが、これもマックスが怪物のマスクを捨てることで、彼自身が本物の「怪物」となって動き始めたようにも見て取れる演出だ。こうして「怪物」となったマックスはトゥーカッターを処刑するが、その方法はナイトライダーと同じであり、これはマックスの運命の「結果」であり、「起点」と「結果」が対になることによって「運命の輪」が完成したことを意味している。

対といえば、登場人物の死に方やケガの状況に注目してみると、どの人物にも対となる状況が必ずある。横転した車で焼かれるグースと、同じ状況で焼け死ぬジョニーがいい例だ。そしてマックスの妻ジェニーは、暴走族の一人の右腕を奪っているが、彼女が暴走族に轢かれた後、病院のベッドに横たわる姿に右腕は見えない。彼女の姿は右腕と左足がシーツで見えない状況にあるが、その姿と同じようにマックスは左足を撃たれ、右腕をバイクで轢かれている。さらにトゥーカッターもナイトライダーと同じような死に方をし、サブリーダーのババはマックスを銃で撃ち、マックスに銃で撃たれている。このように対となる境遇は、彼らが狙ってなるものでもなく、これもまた偶然という「運命」の力と言わざるをえないのだ。この映画にはその他にも細かい対の演出の仕掛けがたくさんあるので、それを探しながら観るのも一興である。

また、主要な登場人物はそれぞれに運命を持っており、彼らはみな車に乗っている。つまり彼らはみな、「車輪」すなわち「運命の輪」に乗っており、全員の運命がその「輪」によってなされているという驚くべき構造をこの映画は持っているのだ。全編にわたり登場する車やバイクのタイヤはすべてが「運命の輪」を司るものなのである。そう考えると「マッドマックス」は「運命の輪(ホイール・オブ・フォーチューン)」が縦横無尽に入り乱れる嵐のような映画と言えよう。また、この映画にはやたらとUターンの場面が出てくるが、Uターンとは弧を描くことであり、弧は「運命の輪」を表している。つまり、何かが弧を描くとき、運命が動き出すことを意味しているのだ。

マックスは「運命の輪」により復讐を遂げるが、後には何も残らない。マックスの復讐には正当性があるように思えるが、元はと言えばマックスが自分でまいた種(ナイトライダーの死)が原因である。彼がナイトライダーを死に追いやらなければ暴走族も現れず、妻子は死なずにすんだのだ。また、家族を殺され復讐したい気持ちは理解できるが、もし復讐という「やられたらやり返せ」という行為が許されれば、あちこちで復讐の連鎖が始まってしまうだろう。「やられたらやり返せ」「やり返されたらまたやり返せ」そんな状況になれば、世の中はたちまち狂った世界に陥ってしまうのだ。(もっとも世界はすでにそんな状況にあるとも言えるのだが)つまりこの映画は、そんな狂った状況にしてはならないという自戒を込めて、マックスのことを敢えて「マッド」と呼び、復讐の虚しさを説いているのだ。自分の行いは、巡り巡って自分に返ってくる、そんな「運命の輪」という「因果律」こそがこの映画の最大のテーマなのだ。

そして映画のラストシーンは我々に静かに訴えかける。「運命の輪からは逃れられないのかもしれない。だが、運命のハンドルを握っているのは、常に私たち自身なのだ」と。その問いかけは、現代に生きる我々にも重く響いているように思えてならない。(2007.6.24)

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (5 人)けにろん[*] DSCH[*] 山ちゃん ジョー・チップ

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