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[コメント] 惑星ソラリス(1972/露)

宇宙の品格。
たわば

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ソラリスが作り出す「客」とは、頭の中で想像したものが何でも具現化されるのではなく、その人間の過去の記憶に基づいたものが現れる。ソラリスはそうした過去の記憶の中から、罪の意識を感じている思考を読み取り、それを人間の前に差し出しているのだ。(少なくとも主人公クリスにとってはそうであった)それは言わば自らの罪の「再生」であり、自身を映す「鏡」でもある。その「鏡」が意味するものは、「人類には宇宙にふさわしい資格があるのか?」という問いかけだったのではないだろうか。ソラリスが問うものとは、宇宙にふさわしい資格を持った「宇宙の品格」であり、それは同時に「人間の品格」を問うものでもあった。

では「人間の品格」とはなんなのか。それは「己を振り返り、自分の罪を認め、悔い改める者」ではないだろうか。つまり宇宙に行く前に、地球、それ以前に祖国において、自らの問題を解決すべきだということである。自分のやってきた立ち振る舞いを省みず、猪突猛進に宇宙へ突き進んでも、それは地上の延長線にすぎない。人間が宇宙だけでなく、未来へ進もうとするなら、自分の過去に向き合い、その罪を受け止め、そして悔い改めることが必要なのだ、とこの映画は主張している。そしてタルコフスキー監督は、祖国ロシアも、「鏡」を見て悔い改めるべきだと暗に主張しているのだ。

そしてその主張はロシアだけに限らない。現在日本は戦後60年以上経つのに、いまだに過去の戦争責任を問われ続けている。(最近では従軍慰安婦問題)それも外国からだけではなく、国内からも非難する声が絶えないのはなぜなのか。(教科書記述問題や原爆の「しょうがない」発言など)それは日本が過去に対し、誠実に向き合っているとは思えないからである。最近ではむしろ過去を美化し、戦前に逆行するのではないかという懸念さえ窺える。果たしてそんな日本が、悔い改めたと言えるのだろうか。日本はソラリスへ行かずとも、いまだに過去の亡霊という「客」に苦しめられているのだ。そしてその「客」は、その場しのぎの対応をする限り、何度でも「再生」されるだろう。我々は過去を誠実に受け止め、より真摯に対応しないかぎり、「客」の呪縛から逃れることはできないのだ。日本はまさに「国家の品格」を問われているのだ。

ラストのソラリスの島で、父にすがる主人公クリス。まるで父なるものに赦しを乞うかのようだ。彼の姿を見ていると、彼の家がまるで教会のように思えてくる。そう考えるとラストシーンは、父と子と精霊を表した「三位一体像」と言え、これは「人間の品格」としての理想像でもあり、クリスはソラリスに受け入れられたと言えるだろう。こうして悔い改めた者だけが、理想の未来に辿り着くことが出来たのだ。「ソラリス」とは人類に悔い改める機会を与え、その試練を乗り越えた者に祝福をもたらす存在だったのではないだろうか。

現代に生きる我々にはソラリスはない。だが我々には過去の記憶を蘇らせる媒体がたくさんある。ビデオや写真、絵画や本など。それを見て我々は当時の思考を思い出し、自らの愚かさを省みる。そしてなにより、人間の思考を読み取り、それを具現化させたものがある。それは「映画」だ。映画とは人間の思考を視覚化したものであり、それは何度でも「再生」できる。今や「映画」こそが、現代を映す「鏡」であると言えるだろう。そして観客は映画という「鏡」を通して自分に向き合い、自らを見つめ直すことができるのだ。それは映画だけが持つ「力」であり「品格」なのではないだろうか。この映画は、そんな「映画の品格」を持った希有な作品の一つだと確信している。そしてこの映画こそが、我々にとっての「ソラリス」と言えるのではないだろうか。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)sawa:38[*] chokobo[*]

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