コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 山猫(1963/伊)

何を「美」と感じるか。
たわば

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ヴィスコンティの映画では、何かの情熱に取り憑かれて、背徳へと足を踏み入れてしまう人物が多い。そしてその情熱の中に我々は「美」を感じる。だがこの映画は、そんな取り憑かれるような「美」が見つけにくい。もちろん公爵の威厳は立派だし、舞踏会も豪華だった。しかし、その中身は? そもそも公爵がやったことは、土地成金と手を結ぶというあまり美しくない行為である。公爵は、何と言っても「山猫」だ。それが山犬のような連中と契りを結ぶのは、貴族の「敗北」であり、名門としての名誉の「破滅」である。そんな破滅に繋がる道を選んででも、公爵が守りたかった「美」とは、いったい何なのだろうか。

ここで映画の最初の場面を思い出してみた。祈りの最中、使用人たちのざわめきを無視し、祈りをやめない公爵の姿勢にすべては集約されていた。どんな状況でも、秩序ある生活を乱したくない、そのためにはどんなガマンも受け入れる、そんな公爵の一面をよく現している。公爵は劇中で「揺り動かされて眠りを妨げられたくない」と言っている。これは、新しい時代になっても今のままでいたいと望んでおり、今まで暮してきた秩序を守ることこそ、公爵が最も望んだものなのだ。また、公爵の書斎には天体望遠鏡がいくつもあり、星への関心がうかがえる。星は揺るぎない秩序で存在する。ならば公爵は、自分の家族、統治する土地、そこに暮らす人々を、自分を中心とした星のように考え、自分の秩序ある生活を星のように揺るぎないものにしたかったのではないだろうか。そう考えれば、公爵にとっては「秩序」こそが「美」であり、そんな「美」を守ろうとした態度にこそ威厳があったと言えよう。

自分の理想である「美」のためなら、何を犠牲にしても厭わないというその生き方こそ、まさにヴィスコンティの描く人物像として共通し、そしてそれは「背徳」とも言える。公爵は、自らの「美」を守るために、家族の気持ちや恩義や血統、そして新しい時代に対する責任すら犠牲にした。現状維持と引き換えに迎える新しい時代とは、土地成金が権力を握り、選挙で反対票を入れても無効にされ、刃向かう者は処刑されるという時代なのだ。それは名門貴族の没落であり、公爵は自らの「美」によって「破滅」の道を選んだのだ。

この作品には「表面の華やかさに目を奪われて本質を見失ってはいけない」というヴィスコンティの意図があり、その最たるものが舞踏会の場面である。しかし、この舞踏会には違った意味での「美」がある。この映画の構造を、平地と丘を結ぶ一本の坂道のようにイメージしてみた。すると、丘の上からだんだん落ちてくる貴族と、逆に丘の下から徐々に上がってきた成金一族とが、坂の途中ですれ違うという構図が浮かび上がる。両者は映画が始まってから少しずつ接近し続け、次第にその距離を縮めてゆき、そしてついに舞踏会で相対するのだ。つまり舞踏会というおよそ映画のクライマックスとしてはドラマ的に盛り上がらない素材に、運命が交差する瞬間という最もドラマチックな意味を重ね合わせているのだ。そしてそれは公爵とアンジェリカのワルツで頂点に達する。華やかな衣装やダンス自体が美しいのではない。運命が交差する瞬間に放つ光と影のせめぎ合いが美しさを放っているのだ。そしてそんな歴史の瞬間を、舞踏会という一つの場面に集約させて描いたヴィスコンティの演出こそ、まさに美学と言えるのではないだろうか。

(評価:★5)

投票

このコメントを気に入った人達 (5 人)ぽんしゅう[*] 週一本[*] ジョー・チップ[*] けにろん[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。