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[コメント] イノセント(1975/伊)

イノセントに生きよ。
たわば

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







「イノセント」とは「無垢」。我々は「無垢」というと、まず赤ん坊を連想する。赤ん坊はありのままの姿であり、偽りがない。とすれば、人間にとっての「無垢」とは、偽りのないありのままの姿であり、「無垢」の逆は「偽り」と考えてみた。ではなぜ人は偽ってしまうのか。そこには他人に対する体裁がある。自分はこう見られたい、世間から尊敬されたい、そんな見栄と自尊心が自分に嘘をつかせてしまうのだ。人間というものは自分にとって都合の悪い事ほど、とかく隠したがるものである。映画の冒頭にフェンシングの場面があるが、この映画ではフェンシングのマスクのように、顔を覆うものが象徴的に使われており、それはありのままの自分という「無垢」を隠した人間の比喩である。冒頭の場面は、そんなマスクを被った人間同士が本心を偽ったまま争うという物語の骨格を象徴していた。

主人公は、妻の浮気相手に敗北したという事実を認めず、そんな負けた自分を打ち消すために敗北の象徴である赤ん坊を亡き者にする。その行為は「背徳」だが、彼にとっては命を懸けた男と男の決闘だったのだ。(むろん圧勝)しかしそのことで初めて妻の本心を知り、彼は二重の敗北を味わってしまう。敗北というありのままの姿である「無垢」を認めようとしなかった、そんな「偽り」の自分こそが自らを死へと追いやってしまったのだ。彼はフェンシングのマスクを被るように貴族のプライドを被り、そして彼は最期まで「敗北」という素顔を隠し通したのだ。

そんな主人公に対し、妻はどうであったか。彼女は顔をベールで覆い、自分の本心を隠し、嘘という「偽り」のベールで夫に接していた。彼女には選択肢として、赤ちゃんを連れて家を出て、新しい生活を築くこともできたはずだ。だが彼女は現状の中に「偽り」の生活を築こうとした。そこには「不貞」を働いたという事実を隠したいという気持ちがあり、彼女は「貞淑な妻」というイメージのベールを脱ぎ捨てることができなかったのだ。そしてそんな彼女の「偽り」が、夫を騙すという「背徳」を犯させ、結果として赤ん坊という「無垢」の死を招いてしまったのだ。

彼らはそれぞれに「敗北」や「不貞」というありのままの姿を隠そうとし、「背徳」という行為に及んでしまう。ありのままの自分を受け入れられないのは、世間に対する過度の体面であり、貴族のプライドがあった。貴族社会では着飾って豪華なパーティーに出かけることに存在意義があるようなものだ。そんな彼らが自分の「恥」を受け入れられないのも無理はない。その点では、我々日本人も「恥」に対して敏感だ。それゆえに我々は自分の恥、身内の恥を隠したがる。連日のニュースを見ていても、政治家や企業はもとより、警察や学校、官僚や国など、いつも誰かがなにかしら隠そうとしているように思えるのだ。それは個人にもいえ、友達関係、会社づきあい、家族や恋人、近所づきあい等々、我々は他人に弱みを見せまいと不都合な真実を隠ぺいし、相手の顔色を窺いながら言葉を選んで気を使い、ありのままの自分を封印し世間体というマスクを被って暮らしている。そして不用意に本心をのぞかれることに過剰な恐怖心を抱き、それゆえに我々は他人に対し攻撃的になり、そうすることでしか自分自身を保つことができないのだ。そう考えると冒頭のフェンシングの場面は、世間から自分の身を守るためマスクを被り、自分の本心を悟られないように行動し、相手の弱みを狙って攻撃しようとする現代の人間関係の縮図のように思えてくる。この映画は、ありのままの姿を剥き出しにできない貴族たちの物語であるが、これは現代社会に生きる我々にも身に覚えのあることであり、普遍的な人間の本質を突いていると言えるのではないだろうか。

ヴィスコンティの映画では、たとえ背徳を犯そうとも、自分に正直な人物に「美」を描いてきた。この映画の主人公は、自分を偽って生きようとする姿があまり美しく思えないが、自分の体裁や自尊心のために命さえも投げ出してしまうという、ある意味で「無垢」な姿には「破滅の美」を感じてしまうのだ。むろん間違った生き方ではあるが、そうすることしかできない意固地な人間の悲哀がそこにある。ヴィスコンティにとっては、そんな「愚かさ」である「背徳」こそが人間の無垢な姿であり、「背徳こそが人間のイノセント」だったのだ。これこそ彼の映画すべてに共通するテーマだったと言えるだろう。

この映画の主人公はマスクを脱ぐより死を選ぶが、果たしてそれは彼の望んだ幸せな人生だったのだろうか。映画のラストで、ヴィスコンティは逆の生き方を我々に提示する。主人公の破滅という「美」を描きながら、そこに背を向け去ってゆく女の後ろ姿で映画は終る。その後ろ姿はヴィスコンティ自身であり、その背中には「偽りの自分に決別し、ありのままに生きよ」という彼の最期のメッセージが込められているように思えるのだ。守るべきは「恥」や「体裁」ではなく、自分の本心に忠実に生きること、それこそが人間としての「イノセント」なのだ。そしてそれは、例えそれが「背徳」と呼ばれようとも、自分の気持ちに正直に生きたヴィスコンティだからこそ、説得力をもって我々の心に響いてくるのではないだろうか。

(評価:★5)

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