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[コメント] サスペリア(1977/伊)

蛇の化身、スージー
たわば

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







劇中のセリフによれば、魔女は「コブラ」、主人公のスージーは「蛇の化身」と言われている。実際のところ、スージーには何か特別の力があったとしか思えない。そうでなくては100年以上生きてきた魔女に勝つことなど常人では考えにくいからである。彼女には魔女を倒す目的などまったくなく、本人の意志とは無関係に対決へと導かれ、たった一人で魔女の組織を壊滅させる。私はここに何者かの意志を感じるのだ。

では何者かの意志とはなんなのか。思えば冒頭の嵐は、彼女に対する危険の警告であり、クライマックスの対決でも、雷の光が彼女の手助けになっていた。雷鳴を天からの声、稲妻を神の意志とするならば、彼女には初めから天が味方をしており、彼女のドイツへの旅も運命によって導かれていたと考えられる。映画はスージーが空港に到着する場面から始まるが、言わばこれは、彼女が「天から舞い降りた」存在であることを明示している。到着口の赤いライトは「予兆」であり、自動ドアにより「運命」が開かれ、雨に濡れることで「洗礼」を受ける。そういえば彼女の着てる服も、洗礼を表す白であった。

次に学校にうじが大量発生するが、福音書によれば「地獄では、うじが尽きず、火も消えることがない」とあり、神の意志が学校を地獄にふさわしい場所に変えたと考えられる。やがて盲目のピアニストが殺されるが、彼は「目は見えなくても音は聞こえる」という言葉を残して退場している。これは後にスージーが、足音を辿って魔女の居場所をつき止めるヒントとなっており、言わば「神の導き」でもあったのだ。またスージーは、映画の中盤までは寝てばかりいるが、学会を訪ねる場面から動き始める。とすれば、この映画のターニングポイントは学会の場面であり、ここに映画のポイントがあった。この場面には劇中で唯一、青空が画面に映っていたのだ。ここで彼女は魔女の知識を得るのだが、これは彼女が「天(空)からの啓示を受けた」という演出だったのだ。

さらに、ここでスージーが着ているカーディガンに注目してみた。茶色っぽくて趣味の悪そうなその柄は、よく見れば蛇のウロコのような模様である。この服を着たのは友人サラの失踪後からであり、これを身にまとった時点から、彼女は「蛇の化身」として目覚め始めたと考えられる。蛇には「神の化身」という意味もあり、スージーは「神の使い」としての役割を背負っていたと見るべきだろう。こうしてスージーを「蛇の化身」として意識すると、ジェシカ・ハーパーの顔もどことなく蛇に似ている気がしてくる。さらに冒頭の自動ドアの場面も、ドアの開閉する音が蛇の発する声のように聞こえてくるのだ。(DVDお持ちの方は要チェック)

やがて彼女は、学校から与えられた食事を捨て、こうもり(魔女の使い魔)の襲撃を退け、秘密のドアを見つけて魔女の元へ向かう。そこでついに「コブラ」と「蛇の化身」という蛇同士による一騎打ちが始まり、「蛇の化身」の鋭い牙が、「コブラ」の咽もとを貫くのである。魔女を倒した後、スージーは雨による「みそぎ」で汚れを洗い流し、魔女の館は炎に包まれる。ラストの炎はまさに「地獄の火」そのものであり、「神の怒り」を表している。キリストの言葉に「呪われた者は、悪魔とその使いたちのために用意した永遠の火に入れ」というものがあり、地獄とは「神の怒りを受けた悪魔とその使いが過ごす永遠の苦しみの場所」なのだ。

この後、彼女は新たな蛇、すなわち新しい魔女になるのだろうか? おそらく彼女の能力は、一度きりで消えたように感じられる。なぜならラストのスージーの微笑みには邪心がなく、使命を果たした安堵の表情にも見えるからだ。すべては神の筋書きによって上演された舞台であり、スージーは役を見事に演じきったプリマであった。ラストに降り注ぐ雨は、彼女に対する天からの拍手であり、カーテンコールでもあったのだ。振り返ればタクシーに乗り込んだ時から神は彼女と一緒だった。だからこそタクシーに乗り込んだ彼女の横には、ハッキリともう一人の人物(監督)の影が映っていたのだ。(2007.7.14)

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)おーい粗茶[*] ペンクロフ[*] プロキオン14

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