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[コメント] ラスト サムライ(2003/米=ニュージーランド=日)

視覚的対置が固定化されているからこそ、アル中将校が異国の地でフラフラと彷徨っていても、観客は「方向音痴」にならずに映画のスジを追い続け、主人公に感情移入し続けることができるのです。
TM大好き

観客にとって見ず知らずの異国モノを扱う場合、重要なのは、状況理解が容易であることです。もっと言えば、観客が「方向音痴」に陥って戸惑うようなことなくスクリーンを凝視し続けられる工夫が必要なのです。そのための手段の1つが、視覚的対置を2つの極に固定化することです。例えば、『ラストサムライ』では、序盤における森の中の戦いで「政府軍:左サイド、右サイド:反乱軍」という横の対置が設定されます。この対置は、ラストの最終決戦でも忠実に守られており、基本的にカメラは一方のサイドから戦闘シーンを捉えていきます。こうした視覚的対置の固定化は、観客にとって誠実です。

ちなみに、「見にくい」作品によく見受けられるのが、カメラの位置が動きすぎる点です。例えば、喧嘩シーン1つをとっても、「A→←B」という撮り方と「B→←A」という撮り方が、頻繁に入れ替わることがよくある。様々な角度から被写体を撮ることは演出上必要なのかもしれませんが、その分、位置の固定化が失われて、場合によっては観客にとって不誠実な映像となってしまう。カメラを動かすのにも適切な限度があるように思えるのです。

ラストサムライ』に話を戻すと、上述した視覚的対置を下支えしているのが「政府軍:近代的軍服、反乱軍:中世の鎧甲」という人物描写の対位法であり、「政府:都市、反乱軍:山村」という場所設定の対位法です。史実としては、士族の反乱で鎧甲を身にまとうケースは新風連の乱がかろうじて思い当たるぐらいだし、近世以降の武士階級は、郷士などの例外を除いて基本的に都市住民であり続けたわけです。しかし、あえてそうした対位法を前面に押し出すことで、場面場面が両極に分かりやすく分断され、視覚的対置がもっと効果的なものとなる。主人公のアル中将校が両サイド間を行き来するだけで、その将校の心情の移り変わりが観客に伝わっていきます。両極に固定しているからこそ、見ず知らずの異国の土地でフラフラと彷徨っているトム・クルーズに、観客たちは素朴に感情移入できる――こうした工夫こそ商業映画の真っ当な在り方だと思うのです。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)moot ダリア[*]

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