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[コメント] 華氏451(1966/英=仏)

焚書の炎が焙り出す、観客の読書観。映像、文字はどちらも視覚媒体だが、前者が後者を排除する社会に於いて、声が両者の中間地帯を成す。思想統制への批判と、メディア論的視座が中途半端に混在した不徹底な内容だが、題材が題材なので思考は刺激される。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







冒頭、文字を用いずナレーターが読み上げる異例のオープニングロールと共に、テレビ・アンテナを映した単色のショットが現れる。本編でも、本以外は文字が排されており、新聞も吹き出しなしの漫画の形式、薬の分類も数字と色で為されている。インテリアや服装のデザインを見ても、単純な色分けによる、装飾性の乏しいものになっており、画一的な社会の雰囲気を演出している。その証拠に、本と共に焼身自殺した女性の屋敷は、温かみのある装飾的なデザインになっている。彼女は死の直前に、嘲弄するように九九を暗唱していたが、学校の子供達が暗唱するのも九九ばかりだ。

もう一つ、彼女の屋敷内は木製の物が目立つが、これはファイアーマン(消防士)が消火活動を行なう必要がなくなり、逆に本を燃やす仕事に従事している社会へのアンチテーゼだろう。終盤の「本の民」が住む場所が、森であるのと同様に。

この‘可燃性’は、物質がいつかは滅びゆくことの象徴となっている。この映画では、自らの愛する本を暗記した後に燃やす、或いは食う「本の民」によって、却って文字媒体、物としての本の排除が完遂されてしまう。「本の民」の一人が、自らの頭を指さしながらモンターグに言う「ここがいちばん安全な隠し場所だ」という台詞、或いは、老いて死にゆく「本の民」が、自らが暗記した本を孫に伝授する場面から感じられるのは、言葉は、音声という形であれ物質的な媒体を必要とはするが、その本質は非物質的なのだ、という言語観。

「言語=物質性の超克」という、一種の復活・輪廻の思想が、それと明確に分かる形ではなくとも、辛うじて示されていることで、「紙媒体が禁じられているのなら、朗読を録音すれば?」という、僕の脳裏に湧いた疑問に、一応は解答が示されていたように思う。たとえこの先、読書の代償行為としての録音さえ禁じられたとしても、頭の中の記憶さえ守られたなら、言語的記録も守られることになるのだ。何者にも侵されない治外法権、自由の最後の砦は、個々人の精神である、ということ。

読書という行為の私秘性。劇中での本の隠し場所はプライベートな空間であり、そこにズカズカと踏み込んで荒らしまわるファイアーマン達。社会の管理者が、家庭のテレビモニターを通して、モンターグの妻リンダに語りかける場面は、映像というものが、活字とは違って公共性を装うことに長けていることを示している。この、言葉が映像に従属した形での「語りかけ」では、実際には対話は成り立っていない。モンターグが妻の友人達に本を朗読し、彼女らに、感動にせよ、怒りにせよ、とにかく生々しい感情を湧きあがらせたことは、映像に制御されたり方向づけられたりしない、言葉そのものの力を浮き彫りにする。

リンダが、モンターグとの最初の出逢いを忘れていたり、ファイアーマンの隊長が、若い隊員に「真面目だな、肖像付メダルをやろう」と声をかけて「…もう頂いておりますが」と返答されたりと、どうも文字の喪失は、記憶力の低下をもたらしているようだ。また、焚書行為が極端な平等思想に基づいて為されていることや、人々に、哀しみや不幸の感情を呼び起こさせるから本は害悪だ、という考えが浸透していること。要はこの社会の人々は、その時々の刹那的な反作用しか行なうことが出来なくなっており、過去という観念が希薄化し、持続的な内省、思考を為す力が弱まっているようだ。

冒頭の家宅捜索の場面での、住民が残した林檎を齧る隊員と、それを掃うモンターグ。ころりさんが既に書かれているけど、これは禁じられた知恵の果実の暗喩なんだろう。終盤に森で、この家宅捜索から逃れた青年がクラリスと共に林檎を齧っている。共に林檎、知恵の果実を齧る。そう、この物語の結末では読書、もっと正確に言えば黙読という行為本来の味わいである筈の、沈黙が与えてくれる完全に個人的な時間、という愉しみが失われているのだ。この物語は結局、活字、文字への愛よりも、語りかけ、対話への愛が描かれていたのだ。

最後の、森でぶつぶつと自分の暗記した文章を暗唱する人々が歩く姿。自分自身にだけ語りかける人々が、視線もろくに交わさずに、他人が独語する声にとり巻かれている。独り言の森を孤独に彷徨う人々。自分の選んだ本だけは、彼の頭の中という徹底的にプライベートな場所に収まっており、それ以外の本は、それを暗記している他人と、時間と場所を共有しなければ触れることが叶わない。このラスト・シーンは、非物質的な言葉となる為に、肉体的な修練を積む人々の崇高な光景ではあるが、と同時に、やはり「読む」という行為は「聴く」とは全く異質な体験なのだと再認識させられる。「読む」ことが完全に失われた世界は、声の公共性を介してしか言葉による表現に触れられないという意味で、声のファシズムの完成形とさえ言えるだろう。

それにしても、街頭で若者の身だしなみを注意する横暴な管理体制が描かれていたり、平等思想や、密告の奨励、テレビによる情報操作など、全体主義社会への諷刺があちこちに散見される。どうもこの映画の主題は、「文字の存在意義」とか「書物への愛」といったものではないのではないか。劇中に描かれていた「文字の排除」は、ファシズム批判の為の素材に過ぎなかったのか。

文字の排除を執拗に描いている筈が、ダリの画集のページが風で捲れるのを延々と映しているショットがあるのも理解に苦しむ。確かに画集にも文字があるが、シュルレアリスムの代表格である彼の画集が焚書の対象となる光景には、やはり表現の自由への弾圧、という分かり易い構図に収まりすぎるように思えて、いま一つ感心できない。

SF映画として見ても、本作を観る限り、トリュフォーはSFに興味も愛着も無さそうで、同時代の世界から文字を排除する、という寓話性に焦点を絞っているようだ。それならそれで徹底させて、奇妙なモノレールだとか空飛ぶ捜索者などを中途半端に出さない方が潔かった。その点、ゴダールの『アルファヴィル』はSFへの徹底した無関心が、コンセプチュアルな簡潔性をもたらしており、それなりにSFを愛している僕にも、これはこれで納得のいく表現になっていた。

(*因みに、もし僕が一冊の本になるのなら……、ミシェル・トゥルニエの『フライデーあるいは太平洋の冥界』に。「無人島に持っていきたい一冊」というのはよく話の種になるけど、この本は無人島そのものについての哲学的寓話なのです。映画と関係ない話ですみません(笑)。)

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)Orpheus ぽんしゅう[*] 3819695[*]

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