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[コメント] ドッグヴィル(2003/デンマーク=スウェーデン=仏=ノルウェー=オランダ=フィンランド=独=伊=日=米)

舞台劇のような形式だけど、舞台から一定の距離を保つ客席からでなく、舞台の中で動き回るカメラを通して見る事で、その形式=約束事の奇妙さが覗けて見えるのがミソ。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







その奇妙な約束事、つまり境界線が一気に崩壊するラストで、突然、劇中の空間が狭く見えるようになったのが印象的。他者との隔たりや、互いに隠している秘密、プライベートな空間が消失すると、自分の手と視線が届く範囲の世界しか存在しなくなるからだろうか。尤も、その反面、グレースが家の中で強姦される場面は何とも皮肉。約束事として、家には壁が在るという設定なので、村人たちはその状況が見えていない事になっているのだが、観客の僕らには、村人たちが敢えてグレースを無視しているように見えてしまうのだ。約束事としての境界線、それは村人たちがグレースに与えた仕事、つまり共同体の中での役割もまた、一つの境界線だと言えるだろう。

グレース graceを辞書で引いたところ、その意味は、美徳、魅力、慈悲、好意、食卓での感謝の祈り、執行猶予、との事。まさにこの映画にピッタリ。以前、哲学者のジョルジョ・アガンベンの本に、「王の身体は、社会の構成員が従うべき法秩序から除外されているという意味では、死者の身体と共通している」という意味の事が書いてあって、これを読んだ時には思わず、この映画の事を連想した。村人たちがグレースを、奴隷か家畜のように扱い始めたのは、皮肉にも彼女の父が村に捜索の手を伸ばしたのが引き金なのだけど、この時に村人たちは、グレースが法の外に出た者なのだと認識したわけだ。だから、法の枠内に居る自分たちは、法を握る権力者の側に立つ者として、彼女に対して生殺与奪の権を持っているのだと。結局、実際には他ならぬ自身が権力者であるグレースは、村で犬扱いされた事で、人間としての復讐を、神が罰を下すかのような立場から実行する。イエス・キリストは、民衆から犬のように鞭打たれ、虐殺される際にさえ、十字架の上で「神よ、彼らを赦し給え」と唱えたが、神ならぬ身には、そこまで慈悲(grace)深くある事は困難。神の審判の日まで執行猶予(grace)を与える事も甚だ困難、というわけですね。

この映画の最重要小道具は、犬の骨だと思う。多分、グレースの慈悲と優越感の象徴として。 最後に姿を現す犬(DOG)は、言うまでもなく神(GOD)のネガの筈。約束事が崩壊した後の人間の本性が、けだもの同然だという暗喩もあるんだろう。ラスト・ショットのあの犬は、神の居ない虚空に吠えたけっているように見えるけど、実は、神の視点で劇中の人間どもを見下ろしている、僕ら観客に向けて吠えているんじゃないだろうか。食卓での感謝の祈り(grace)を共にする事は、共同体の中で人として認められている事の、一つの証明。あの独立記念日の食卓での祈りが、グレースの幸福の絶頂であり、その日に布告された指名手配を境に、グレースの運命は暗転していく事になる。そして、犬が、食卓から残された骨しか与えられないように、ただ生きている事だけが許された存在へと落ちていく、哀れなるグレース。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (6 人)Orpheus DSCH[*] 赤い戦車[*] くたー[*] たわば ゑぎ[*]

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