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[コメント] 砂と霧の家(2003/米)

「入っていいですか」や「どうぞお入りください」といった何気ない言葉が、これほどまでに残酷に、また優しく、そして緊張感を孕んで聞こえる映画は初めてだ。恐らく、他にそんな映画は無いだろう。映画に於ける繊細さの手本のような作品。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ベラーニが、転売に出されたキャシーの家を見学に来る場面での、床や窓に輝く光の美しさ。そして、ベラーニが満足げな表情を浮かべた時に挿し込まれる映像で、鳥が電柱の上にスッと降りて、とまる。こうした場面の繊細さは、ちょっと堪らないものがある。この映画には、こうした詩的な瞬間が何度も訪れる。単に絵づらの美しさだけではなく、イメージとイメージの繋がりが語る、無言の言葉に溢れた作品。

森や霧、海などの自然が映像として挿み込まれるのも、単に環境ビデオ的な美しさを見せている訳ではない。人が築き上げる家というものの儚さを逆照射するものとしてある。冒頭でベラーニが、樹を切って海が見えるようにした回想シーンや、買ったばかりの木製の家をさっそく改造して、やはり海の見えるテラスを作ろうとする姿には、父として、積極的に家を作っていこうとする精力的な在り方が窺い知れる。

釘を踏んで足を怪我したキャシーが家の中で治療を受ける場面で、最初、彼女を玄関に通す前に、血が垂れるのを見たベラーニ夫人がビニール袋を用意させる場面には、家が誰のものになったのかが如実に表れている。ベラーニ夫人は全くの善意でキャシーを招き入れるのだが、キャシーからすれば、工事に来た男達からは、他ならぬベラーニ夫人かと問われ、自分の家に入るのに許可が要り、そこに住む人間の善意によって招かれる客人となる、という、その事自体が残酷な事なのだ。思い返せば、自分はヘビースモーカーであるキャシーが、家を差し押さえに来た職員が煙草を吸おうとすると「ここは禁煙よ」と一喝する場面などにも、人間のテリトリー意識が巧みに表現されている。

キャシーが友人の家に居候している場面はほんの少ししか映らないが、テレビで大きな音で音楽を聴いている友人と、その後ろで掃除機の音を鳴り響かせているキャシーの様子からは、居候として立場が弱く、しかもやはり居る事自体が邪魔だと思われている状況が伝わってくる。モーテルにすらいられなくなったキャシーが、トイレで身支度を整える場面は、かつてのベラーニの生活そのままだ。

レスターに、どこに住んでいるのか訊かれたキャシーは、この車に住んでいる、と答える。そのレスターもまた家を出てしまう。彼がベラーニを脅して、キャシーの所に戻って来、自分達はホームレスだ、と笑い合う場面もまた、車の中。レスターが捨てた家族が、彼の職場である警察署にやって来る場面でも、子供たちが車の窓の中から泣き叫んでいる。車とは、移動の手段であると共に、本来は棲み家ではないのに、家を無くした人間が最終的にはそこに行き着かざるを得ない場所、という象徴性を帯びている。人が渡り鳥のように寄る辺なくなった様を、車という物を使って巧みに表しているのだ。

自殺未遂を起こしたキャシーを家に招きいれたベラーニは、彼女は傷ついた鳥だ、家に迷い込んだ鳥は天使だと云われている、と息子に言う。だが彼自身も、転売目的でしばらく住み着いているだけの、渡り鳥のような存在なのだ。更には、イランでは高い身分であった彼は、アメリカという異国では、居場所の少ない肉体労働者なのだ。

レスターが、家族との関係が壊れてしまった様を見せているからこそ、唯一の拠り所であるキャシーが、自分が居なくなったせいで自殺までしようとした事に動揺し、彼女の為にベラーニ親子に銃を向けるほど逆上する心理に必然性が出る。レスターがベラーニ親子を脅して歩く場面で、後輩に呼びとめられて、世話になった礼を言われる場面で、彼がぎこちなく挨拶を交わす姿は、レスターが元の自分を失いかけている事を感じさせる。それにとどめを刺すのが、留置所らしき場所から家に電話をし、自分と家族が一緒に吹き込んだ留守番電話の声に首を垂れて打ちのめされる場面。家族と共に明るく声を揃える事などもう無いという、過去と現在の越えられない距離、そして、家にはもう家族は不在だという事。

冒頭でキャシーの元に母からかかってくる電話は、口うるさいだけで娘の話は殆ど聞かないといった様子が感じられるし、キャシーはその母に、出て行った自分の夫がまだ傍に居るかのように嘘をついている。彼女にとっては、父が苦労して手に入れた家だけが、家族の名残を留めるものであるようだ。だからこそ、キャシーが、切羽詰ってどうしようもなくなってから初めて兄に電話するのも、元々家族との間に、相談事をして頼れるような関係が無い事が見てとれる。実際、この兄も、仕事が忙しいと言って電話を切ろうとし、キャシーよりも職場の同僚の方に注意が向いている様子なのだ。

この映画には、登場人物を善悪や類型で区別するような品の無さは見られず、むしろそうした意識こそが悲劇をもたらす様を描いている。登場人物達は、それぞれがそれぞれのエゴを持つ、生きた人間として描かれている。このバランス感覚もまた、この映画の繊細さの表れだ。法律上の手違いや、役所から送られて来た手紙を開封していなかった、といった、ちょっとした行き違い、人と人の行いや思いのずれが事態を悪化させていく様が描かれている。

だが、マイノリティとしてのイラン人の立場や、彼らに向けられる偏見を描いていない訳ではない。レスターがベラーニに「移民局に友人がいる。強制送還させるのは簡単だ」と脅し、逆に上司から呼ばれてしまうという件には、イラン人は誰もが不法に滞在しているのだとでもいうような偏見、イラン人がアメリカに居る事自体が間違いだとでもいうような物の見方が存在する事を示している。

家族の家で、孤独に暮らしてきたキャシーと、家族と共に、家から家へ渡り歩くベラーニ。アメリカの、崩壊した家族、更には、アメリカに於ける移民の現状、といった現代的テーマを描きつつも、人にとって居場所とは何か、という永遠のテーマに触れる。この、具体性と普遍性のバランスもまた巧みな所だ。

いつまでもそこで安らげる「終の棲家」とは、死が訪れた時にしか得られないものなのか。息子を亡くし、妻と共に心中したベラーニには、最後まで家族と共に在るという態度があった。息子が人質に取られそうになったり、警官に撃たれた際にも、息子の傍から離れる事だけは拒絶していた。家も財産も無くしても、息子だけは命を救ってほしいと神に祈るベラーニ。だからこそ、父を亡くした事を嘆き、家族とも別居しているキャシーは、酔ってあの家の傍らで自殺未遂を起こした夜には、ベラーニに「傍にいて」と嘆願し、また映画の最後には、息子の元へ妻と一緒に逝ったベラーニに敬意を表するかのように、警官に、あれは貴女の家か、と訊ねられると、いいえ、と答える。この警官の質問の場面は、映画の冒頭にあったもので、この映画は、キャシーがその答えとして「いいえ」と呟くに至る過程を描いた作品だ。

それにしても、ロジャー・ディーキンスという撮影監督は、『ヴィレッジ』でも良い仕事をしていた。映画は、監督や役者の他、撮影監督で選ぶのもなかなか良い選択だと最近思う。何もそれを理由にこの映画を観た訳ではないんですが。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)死ぬまでシネマ[*] tredair

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