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[コメント] ホワイト・ライズ(2004/米)

部屋、窓、鏡、電話、等々を用いた、複雑に反射し合う関係性と間接性の網目。始まりから終わりまで、象徴性と論理性の一貫した作劇術には、整然とした美しささえ感じる。変にメロドラマ的な要素を加えないで冷徹さに徹してくれた方が好みだったかも知れない。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







鏡やガラス、ビデオカメラの映像が幾つものショットに配されており、更には電話を介して嘘や伝言が伝えられる、といった形で、離れた場所のイメージと声が何らかの媒介物によって間接的に交錯し合う、嘘と誤解と行き違いの劇、とこの作品を定義できる。

マシューが、リサを再び見つけたかも知れないと思うきっかけもまた、壁越しに電話室から聞こえてきた声。その時に彼が向き合っているのは、トイレの鏡に映った自分の姿。その後、マシューがリサがいる筈だと思って入った部屋で、彼女の不在という事実と共に、鏡に映った自分の姿と直面するショットを、観客は目にすることになる。

アレックスの舞台化粧や、部屋の間の壁やドアといった、視界を隔てる要素も巧みに絡ませた作劇には感心させられる。隔たった場所を結ぶ物として、車の鍵、部屋の鍵も重要になる。そしてこの鍵が他者から借りた物であることがまた、複雑に交錯するドラマを織りなす糸の一つとして機能する。

この映画の最後にマシューとリサを再会させる要素として、二つの物に注目するべきだろう。リサの、鏡が割れたコンパクトは、‘鏡像=間接性’の破壊を意味していると解釈できる。リサが二年前にマシューに宛てて書いた手紙は、メッセージの送り主が直接その手で書いた筆跡が残る、という直接性がある。これは、マシューが電話を通して聴いたアレックスの声を、‘もう一人のリサ’と‘友人の恋人’という二通りの人物の声として聞いてしまい、同一人物だと気づかないシーンがあることから、重要になる。

そして、‘もう一人のリサ’が残した筈の、踵の折れたハイヒールの代わりにマシューがプレゼントしたハイヒールが、彼女の足には大きすぎるという、『シンデレラ』を思わせるシーン。マシューの友人の、足に直接ふれる靴屋の仕事(偶然に店に入ってきたリサと話す為に、友人の代わりにマシューが応対したのだ)が、アレックスの嘘を見破るわけだ。マシューはカメラマンであり、元はビデオ店で働いていて、リサを見初めたのもビデオ映像を介してであり、彼は本来、‘映像=間接性’の側にいる人間なのだ。リサの足のサイズが「8 1/2」で、フェリーニの映画の題名と同じであることをマシューが指摘する台詞があるのもまた、「映像」という主題を暗示している。

アレックスは、恋する人物を舞台で演じるが、演出家から「恋をしたことが無いのか」と叱責されてしまう。だが舞台公演を観にマシューが来たことで動揺し、図らずも迫真の演技をする。本当の感情を刺激されたが故に、演技という嘘が巧くつけてしまうという逆説。演じる女である彼女に対し、その友人であるリサはダンサー。同じく舞台に立つ者ではあるが、リサは言葉を表現手段としないし、誰かを演じるわけではない。ここには、マシューとその友人のそれに似た対比の構図がある。

アレックスがリサと出会うきっかけは、彼女がリサを窓の向こうに見ていたこと。マシューがビデオ映像のリサに惚れたのに似て、覗く行為がここでも機能している。更にはリサはアレックスの部屋に、窓越しに入ってくる。ここにも空間の移動という要素が絡んでいるわけだ。覗く、という点では、マシューがドアの下に差し込まれたダニエルの手紙を取る場面や、自分が格子の隙間に落とした鍵を拾う場面での、覗き込んで手を差し入れる、という行為の反復がある。

ラストショットは、飛行場という、マシューとリサを遠く離れた場所へ隔ててしまうシチュエーションでの、別離の寸前での再会となる。ここでマシューは、利用客の波に呑まれてリサの姿を見失いそうになり、しかも眼前に婚約者まで現れる。思えばマシューの友人の勤める靴屋は中国語の文字が窓ガラスに書かれていて、マシューの出張先である中国を暗示し続けていた。

二人が遂に直接顔を会わせた時、人々の波が、観客の視界から二人の姿を遮る。映像という間接性の終焉。まるで方程式の解のように的確なラスト・ショット。間接性から直接性へ至る過程、マシューが喫茶店でリサに「一緒に住もう」と告げた時のあの直接対面し合う関係への回帰こそが、この映画の主題だったのだと理解できる。

画面設計もカメラワークもセンスが良く、過不足のない的確なカット割りが流麗な流れを生んで音楽的な心地よさすら感じる。そのあまりにそつがない点が物足りないとも言えるのだが。また僕にはリサよりもアレックスや婚約者の方が遥かに魅力的に感じられ、その辺が感情移入しづらい所。そうしたわけでラストも巧さに感心はするが感動は特に湧かない。

主要登場人物である四人は誰もが誰かを恋しているが、自身が他者の一方的な恋愛感情の対象とされていないのは、靴屋のプレイボーイだけだという点がミソと言えばそうなのかも知れない。というのも彼は最初から平気で二股をかけられる男だからだ。この複雑な人間関係の織り成すドラマで最終的に最も印象づけられるのは、自分の想う相手から自分自身も想われるという、一対一で向き合う関係を結ぶことの困難さと貴重さ。マシューがリサの姿を追って自分の鏡像と向き合うショットは、自らの孤独と向き合う人間の肖像と言うことが出来る。

元ネタである1996年の映画『アパートメント』(L'Appartement)は未見なので、そちらを観たらまた評価が違ってくるかも知れない。『アパートメント』は約10年前の映画であったので、このリメイクの方は携帯電話の扱い一つとっても何かひと工夫あったのかも知れないし、逆にこの映画の一種メディア論的な要素を含めて『アパートメント』の方からの借用であったとしたら、リメイクとしての価値はその分低めに見積もる必要がある。その辺、今は判断を保留したい所。

(評価:★3)

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