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[コメント] 昼顔(1966/仏)

「昼は淑女のように、夜は娼婦のように」という決まり文句を裏返しにしたような倒錯的世界。倒錯、或いは逆説は、この映画の首尾一貫した論理である。白昼、黒い衣装に身を包み、黒眼鏡で顔を隠すセヴリーヌは、女の形をして歩く夜の闇だ。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







セヴリーヌが夫ピエールとの性交渉を拒否するのは、どうも少女時代に中年の男と性的な関係があったことに由来しているようで、そのせいか、その少女時代の彼女は聖餐式のパンを拒否してもいる。それは罪悪感に由るものなのか、或いはこのパンが「キリストの肉」、つまり男性の肉体を体内に受け入れることを意味しているが故の拒絶であったのかはよく分からない(マノエル・デ・オリヴェイラの『夜顔』は前者の解釈に依っているのだろう)。いずれにせよ、性的な禁忌を犯したが故に、キリスト教的にも社会的にも性的関係が許されている夫に対してまで頑なになってしまうわけだ。

だが、夫の友人であるアンリは却って、貞淑な彼女にこそ惹かれたのであり、娼館の場所を教えたのも彼だった。そしてセヴリーヌが本当に娼婦になったことを知ると、もはや彼女を抱こうとはしなくなるのだ。これもまた逆説的なことである。貞淑さと淫欲とは、共犯関係なのだ。セヴリーヌの許を訪ねて居留守を使われたアンリが、友人たち四人で囲んだテーブルの下に彼女と一緒にもぐり込んで、封筒から百合の種を出すシーン(というか、女友達の口から間接的に伝えられるだけなのだが)は、百合が純潔のシンボルであり聖母マリアの受胎告知の像によく登場する花であることを思えば、所謂「シュール」な場面ではない。そう考えれば、このシーンで彼が酒瓶を割るのも、聖餐式でキリストの血として差し出される葡萄酒を暗示しているのかも知れない。テーブルの下という場所そのものも、白昼の暗がりという暗喩を思わせる。

少女時代の回想や、夫の召使いに鞭打たれ犯される夢を見るセヴリーヌには、罰への願望が垣間見えるのだが、そこにもまた、逆説的な被虐嗜好が感じとれる。彼女が娼婦となるのも、自分を罰しているようでもあるが、その行為によってより罪深い存在へと落ちていきもするのであり、そうした堕落に彼女自身が酔っているようでもある。夢の中で牛の糞をぶつけられるセヴリーヌは、「やめて」と言いながらもやはりどこか快楽を覚えているようでもある。この牛たちが「殆どは『後悔』という名だが、一匹だけ『贖罪』がいる」と言われるのも、非常に分かりやすく、解説的にすぎるほど。この映画は不条理でシュールな作品などでは全くなく、むしろ非現実的なまでに論理が一貫した世界が描かれているのだ。

あの娼館にも少女がいたが、彼女は自分の生活のすぐそばで繰り広げられている性の営みなど全く知らぬ無垢な存在のように描かれている。たぶんあの場所は、セヴリーヌの屈折した心のしこりを解消する、治療の場であったのだ。

最後、セヴリーヌへの独占欲に駆られた客に撃たれたピエールが、半身不随になったその身を車椅子に預け、黒眼鏡の下に、表情の死んだ顔を見せている姿は、アンリから「聖人のようだ」と評されていたその優しさの不能性にとり憑かれてしまったかのようだ。そこへ訪ねてきたアンリはセヴリーヌに「彼が君に世話をさせていることに後ろめたさを感じないように」という理由を告げて、ピエールに、彼女が娼婦をしていたことを教える。その後、二人きりになった部屋でピエールが唐突に立ち上がる光景は、死からの復活の奇跡のようだ。その時にどこからともなく聞こえてくる猫の声は、セヴリーヌの客の一人、死体愛好家の館を彼女が訪ねた時に聞こえていたもの。太った東洋人の客が鳴らしていた鈴の音や、馬車の音も聞こえ、全ての欲望と罪悪感が浄化されたような終幕が訪れる。

この映画のどこからどこまでが現実/幻影なのかを問う必要はないだろう。虚か実かと問われたなら、これは映画だ、という答えしかない筈だ。そしてその映画を貫く論理は、繰り返すが、非常にクリアな形で提示されていた。娼婦であることと淑女であることとは両立せず、矛盾するものであるが、劇中の台詞にも言われているように、淑女こそが男の欲望をかき立てるのであり、娼婦としての素質があるのだ。「逆説の力は、それが矛盾していない点にある。だが我々は矛盾の成立に立ち会っているのだ」(ジル・ドゥルーズ『意味の論理学』)。最後の一見すると唐突な幕切れも、純潔=不能性への罪悪感が、不感症であったセヴリーヌから夫の方へと転移し、その転移した罪悪感がセヴリーヌの自罰的かつ被虐嗜好的な不貞によって解消されるという、完璧に整った論理の直截な提示であるが故の唐突さであり、僕には、不思議な光景というよりは、「そのまんま」な結論に思えて、むしろその素朴さに驚いてしまう。

公開当時にこの作品がどの程度の新鮮さを持っていたにせよ、僕にとっては、倒錯をテーマとした作品としては、あまりにも正攻法な構成に映ってしまうのだった。長々と分析してきたような内容よりも、幾つかのショットの美しさの方が印象に残っているのだが、画作りに関しては殆どの個所で、それほど厳格であるように見えないのが残念。

(評価:★3)

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