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[コメント] リンダ リンダ リンダ(2005/日)

被写体を突き放すのでもなく、見守るのでもなく、そのリアルな生態を覗いているようなロング・ショット。ライヴ本番までの苦闘を、正攻法の「汗と涙」で描くのではなく、少女たちが見せる疲労感で間接的に表現する、その距離感と低温さが山下監督的。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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だが本番当日のシーンでは、すっかり眠り込んでいた少女たちが携帯電話で呼び出しを食らい、激しい雨の中を会場まで必死で走る、という形で、その熱い思いをも映像化している。

登場人物間に、微妙かつ絶妙にリアルな距離感、ズレを作る山下監督の演出。最初の内は、その惚けた風味を味わいつつ、次第に画面の中の登場人物を蹴っ飛ばしたいような苛立ちを覚え、しかしまた徐々に穏やかに見守る気持ちになる、といった調子で、この低体温な映画に意外と感情を揺さぶられている自分に気づく。神経質な恵(香椎由宇)が、ヤンキー風の田花子(山崎優子)と学校の屋上で話す場面では、田花子のハスキーな声の穏やかさに、何かホッとさせられた。

この距離感やズレは、物語の中心に韓国人留学生のソン(ペ・ドゥナ)をバンドのヴォーカル役として置いたことで、上手い具合に醸し出されている。特に彼女が男子生徒から告白を受ける場面は笑える。しどろもどろに、片言の韓国語で気持ちを伝えようとする男子。遂に、意を決して言う。「サランヘヨ(好きなんです)!」。ソン「…?……あ、ハイ」。

ソンの存在は、余り日本語がまだ話せない留学生という設定に加えて、ペ・ドゥナの、のんびりした小動物のようなマスコット的キャラの味わいが、更に惚けた雰囲気を生み出している。だが単にユーモアという点にとどまらず、バンド・メンバーとの、少ない言葉を介してのコミュニケーションが、台詞を抑えた間(ま)の演出、という邦画の美点を際立たせてもいる。

鏡の前で会話するソンとケイ。ケイがいつの間にか、韓国語でソンと話せるようになっている。観客には二人が何を話しているのか分からないが、それだけに、二人の間に親密な関係がいつの間にか築かれていたことが感じとれる。山下監督の、劇中の登場人物に対する距離感を保つ視点は、単に客観的な雰囲気を演出するのみならず、少女たちの間にある、観客にも演出家にも触れられない濃密な関係性を感じさせる効果をも上げている。

バンドが夜の学校で練習を繰り返すシークェンスの中での、ソンが部屋から出、一人散歩するシーンが何とも印象的だった。ソンは普段は一人で授業を受けていて、すぐ近くに居る同世代の生徒らと言葉を交わす機会も、余り無い。そんな彼女が、昼間の文化祭での屋台の呼び声を片言で真似ながら(言葉の意味も理解していないかも知れない)、無人の屋台が並ぶ暗い道を、一人歩く。これは、昼間の彼女が置かれた、友達らしい友達も無く、異国で独り、という状況を、そのまま反映した場面と言えるだろう。

ソンは、誰も居ない体育館でステージに立ち、一人でリハーサルをする。まず韓国語で自己紹介。この監督の偉い所は、こうした場面で日本語訳の字幕を付けないことだ。ソンの言葉は、観客である僕らにも伝わらない。だが、メンバー紹介での「ギター!」「ヴォーカル!」といった英語や、「キョーコ!」「ケイ!」という、一人一人の名は、そのまま聞きとれる。音が言葉の垣根を越えさせる。ソンは、こうした数少ない言葉で、メンバーとの絆を繋いでいるのだ。ソンが続いて歌う曲の日本語の歌詞も、彼女自身は意味よりも音として記憶しているのかも知れないのだ。

バンドのヴォーカルが足りない状況の時、ケイが「最初に歩いて来た人がヴォーカル」という行き当たりばったりな考えで韓国人留学生をメンバー入りさせる展開は、作劇上は実に必然的なのだ。これによって、「少女たちが歌う」という物語に、強い主題性が付加されることになる。

一人リハーサルから練習室に戻ったソンを、メンバーの少女たちは普段通りに迎え入れ、「やるよ」と静かに告げる。この、何の劇的な作為も感じさせない低いテンションが、自然体であるが故に、温かい。

ソンが一人でステージに立っている場面では、彼女を正面から捉えたショットと共に、彼女の視点から、誰も居ない体育館を捉えたショットが入っていた。そして、本番では、勿論ソンはメンバーたちと共にステージに立つのだが、今度は逆に、緊張して観客に背を向けるソンを正面から捉えたショットがしばらく続く。先述の二つのショットを合わせたような構図になっているわけだ。そんなソンが客席の方を向くのは、メンバーたちが彼女の隣に居るのを確認したからだ。この、ショットの構図、登場人物同士の視線の交わし合いによる、最小限の場面構成によって、的確にドラマを表現する演出が麗しい。

遅刻しているバンド・メンバーが会場に着くまでの繋ぎで歌っていた萠を演じた湯川潮音は、実際に歌手なだけあって、見事な美声を披露する。体育館でバスケなどに興じていた生徒たちも、思わず聞き惚れ、最後には拍手する。ここで彼女が伴奏も付けずにアカペラで歌い上げて喝采を受けるという点がミソであり、これによって、全くの素人であるソンがステージに立つことのハードルを上げている。だが、独力で聴衆を感心させた萠とはまた違って、ソンがメンバーたちと共に盛り上げていったライヴは、歌そのものは特別に秀でているわけではなくとも、聴衆を巻き込んで一緒に楽しむライヴになる。

盛り上がるライヴ会場とは対照的に、外は豪雨で、冷たく、暗く、人も居ない。その光景を捉えたショットが挿み込まれることで、「終わらない歌を歌おう」と熱唱する少女たち、それに熱狂する生徒たちの明るさと熱の、その一瞬の儚さと貴重さと切なさが胸に沁み渡る。所謂「青春映画」で、これほどリリカルで、何の厭味も覚えずに素直に感動させてくれるラスト・シーンは、これまで観た覚えがない。

ところで、冒頭に‘ひいらぎ祭’のPR映像のようなものの撮影風景が描かれているが、この、観ているこっちがちょっと恥ずかしくなるような青くさいポエムの朗読、更にはこの撮影スタッフが後でお化け屋敷の撮影をしたデジタル・ビデオ映像が挿入されることで、彼ら自身の視点から見た文化祭を、観客に体験させてくれる。この映像を、何年か後に彼らが観ればきっと耳朶を赤らめずにはいられないと思えるのだが、それは、高校生活のその一瞬で、彼らが真剣だったからなのだ。ひょっとしたら、後から気恥しくなるような経験を積んでいないとしたら、そのこと自体が恥ずかしいことなのかも知れないのだ。

(評価:★4)

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