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[コメント] 七人の侍(1954/日)

七人の侍、というより、『米と刀』。まさにザ・日本映画。今だ先端的でありまた、偉大なるオーソドクシー。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







オープニングの音楽も文字も、共にシンプルだが力強い調子で、正攻法の直球勝負、という印象。実際、本編も概ねそうした予測通り。白黒の映像が、筆に墨をつけて描いたような、勢いある潔い迫力を放つ。

だが、実はそう単純に「理屈抜き、極上のエンタテインメント!」の一言で済ませられない含みもあって、これは本当によく練られた脚本。「百姓に雇われた侍」という発想の妙。米の有り難味と侍の矜持という日本的価値観と、「飯を食わねば死ぬ」「刀で斬られたら死ぬ」という死活問題を同時に描く。切った張ったは全く不得手な百姓と、それは得意でも飯は百姓頼みな侍。

七人の侍達は、「金にも名誉にもならぬ」が飯は食える、という条件にそのまま乗って参加する訳ではない。幾多の戦場を共にした誼や、人物への尊敬の念、闘いそのものへの求道心、等々の、結局は侍的価値観に従って集う。村の長老が狡猾な表情を浮かべて言う「腹が減りゃあ、熊でも山を降りるだ」は、映画全体を影から支配する呪縛のような迫力を感じさせるが、この理屈による「腹が減った侍を探して雇えばええ」は、実際には七人の中で、腹が減っているからと雇われた者はいないので、どこか空転している。だが、侍になりたい菊千代と、歴戦のリタイア侍・勘兵衛という対照的な二人が、百姓が米を食えないのは侍のせいだ、という社会的背景を己自身の業として背負う形で、飯を食わねば死ぬ人間ならば加勢すべし、といった雰囲気を盛り上げていたように思う。

野武士との戦いで掲げられた旗のデザインでは、○で侍を表していたが、勘兵衛が、死んだ野武士の数を記録する際には、○にバツを付けていた。つまり、野武士も侍は侍、食うに困って野武士が村を襲い、それを守る代償として、七人の侍は飯を受け取る。戦いの社会的背景、階級論的に言えば、マッチポンプだと言えない事もない。

村を襲う野武士が、無機質な悪役戦闘マシーンのように描かれず、百姓の竹槍を恐れている生身の人間である所がリアル。勘兵衛さえも、落ち武者狩りで竹槍に追われた経験を、嫌な記憶として残している。彼の戦友・七郎次に「あの百姓達を斬りたくなってきた」とまで言わせるのは、まさに脚本の妙。ここで侍は、あの野武士達と一瞬重なるのだ。

勘兵衛はそれを分かっていたからこそ、最後に「また負け戦だ。勝ったのはワシらではない、あの百姓達だ」と言ったのだ。宿屋で見知らぬ客に「百姓は自分達が作った米なんか食えないんだぞ」と言われた勘兵衛が「分かった。この飯、疎かには食わんぞ」と言う場面は、あの最後の台詞とリンクしていた筈だ。思えば勘兵衛が初登場した場面では、小屋の中で盗賊の人質にされている子を救う為に、握り飯を小屋に放り込んでいた。この時点では、白い米は命に比べたら安いと思っている訳だ。だが実は、米が百姓の命より重いとされているのが世の実情なのである。この時、坊主の格好をして盗賊を騙す為に、勘兵衛は髪を剃っている。髷を切り落とし、この時点で既に彼は半分、侍の立場から降りているのだ。そしてこの後、何か考える時に坊主頭を撫でる仕草は、彼のトレードマークとなる。

また菊千代は、百姓と侍を共に批判しつつも両者を繋ぐ役割を担っていた。折角やって来た七人の侍を出迎えもせず恐々と閉じ篭っている村人に業を煮やした彼が、野武士襲来を知らせる合図を鳴らして村人を動揺させ、「おさむれぇ様ァ〜」とうろたえる様子を揶揄する場面は、菊千代が百姓の本質をよく知り抜いている事が分かる。彼が侍になったのも、自分がその「お侍様」になれば手っ取り早いと考えたのかとも想像させる。菊千代が、村人が隠し持っていた、落ち武者狩りで奪った戦利品を他の侍たちに曝し出して見せた場面での彼の演説は、日本映画史上に残る名場面だと言いたい。「殺る侍、殺られる村人」という単純な構図(当の『七人の侍』自体がそんな作品だと思われがちなのだが)を引っくり返す、時代劇史上のトリック・スターとしての菊千代。

更には、燃えさかる水車小屋から救い出された子を抱く菊千代の「これは俺だ!俺もこの通りだったんだ!」という叫びは、この子が両親と祖父を同時に亡くしている事から、菊千代もまた天涯孤独の身である事が窺える。そして、彼が侍になろうとしたのも、百姓の卑怯な生き方に嫌気が差したという以上に、無力さに絶望してなのかも知れない、とも想像させられ、ただ格好をつけたい為に侍になりたがっている軽薄な奴ではない事が、ここで初めて分かるのだ。村人を小馬鹿にしてからかう彼が、無力だが無邪気な村の子供らに対しては「面白いアンチャン」として振る舞うのも、単に息抜きとして和める場面を入れたというに止まらず、菊千代の人生そのものが滲み出ているのだ。

勘兵衛と菊千代の他、侍と百姓、という立場の齟齬と交流を描くもう一つの系列が、岡本勝四郎と志乃の“ロミオとジュリエット”調の恋愛。二人の関係が発覚した時、激昂して娘を小突き回す万造を、七郎次が「城でも決戦の前夜はこうした事がよくあるのだ」と宥める言葉には、死を前にすれば百姓も侍もない、同じ人間だという認識が彼の中に生まれている事が感じられる。実際、命懸けの戦いを通して一体感を得ていく侍と百姓、という軸の他に、この恋愛話があるからこそ、素の人間同士としての侍と百姓、という面が十二分に感じられるのだ。戦いではどうしても侍の方が上位に立ってしまうのだから。宥められても納得しない万造に、利吉が「好きになった同士が一緒になったんだ。グダグダ言うなッ。野武士にくれてやるのとは、訳が違うぞ!」と一喝する場面は泣ける。利吉が野武士の小屋にいた女房の前に出たせいで、侍に最初の戦死者が出た事を思うと、二重に意味深い場面だ。

しかしまた、この恋そのものが、戦いの為の、村への侍の一時滞在、という状況を前提とした恋であるので、最後には破れる。妙にベタベタした甘い描き方などされてはいない。村に野武士が斥候を放った場面も、この二人が逢引きの場である花畑で見つけるのであり、更にはその花畑が最初の戦いの場となるのだ。ラスト・シークェンスで、志乃が活き活きとした顔で野良仕事に励むのに対し、取り残された勝四郎は呆然としている。侍は、戦いが終われば用済みで無用の長物に過ぎないのであり、村にいる存在価値も無く、身の置き所も無い。

勘兵衛の「負け戦」という言葉は、菊千代の残した「侍が百姓から何でも奪うから、こいつらは卑怯で冷酷になるんだ」という言葉と、若い二人の悲恋、この二つがあって初めて説得力が出る訳だ。

丸い盛り土の上に刀が一本突き刺さった墓が四つ並ぶラスト・ショットは、その哀しい粗末さと、刀一本の潔さが相俟って、見事な絵になっている。

切れ者で人徳者に見える勘兵衛だが、「七人の侍」候補に面接する際、勝四郎に、蔭から棒で殴りかかれ、遠慮はいらん、と命じ、「侍なら殴られはせん」と、分かったような分からぬような理屈をつける所など、けっこうトボけたオッサンでもある。傍で見ていたヤクザ者に「卑怯だ」と批難されるのが微笑を誘う。

盗賊を騙す為に頭を剃るなど、発想が大胆で思い切りがいい所も含めて、「闘い」とはどういうものなのかを教えるティーチャー役としての存在感が抜群の勘兵衛。一種、悟りを開いた賢者のようだ。映画の中間地点で、自分の家を守る為に持ち場を離れようとする百姓達を一喝した言葉「人を救う事で己を救う事が出来る、戦とはそういうものだッ。己の身の安全ばかりを図ろうとする者は、己をも滅ぼす者だ!」は、見事な箴言。

だが勘兵衛は、かつては立身出世を夢見ながらも、いつの間にやら白髪が増えて、と、過去には欲も功名心もあった事を告白する。自身の孤独な身の上を語るその姿。彼が人助けをしたり、仲間を集めたりしたのは、寂しかったからではないのか?と、意外に小さな人間性も垣間見える感じが、また良い。

最後に野武士の頭領に種子島=鉄砲で殺されるのが、立ち居振舞いから腕前までもが「ザ・侍」といった風情の久蔵で、その卑怯な攻撃に怒って、自らも撃たれて致命傷を負いながらも頭領を斬り殺すのが、百姓出身の自称侍・菊千代。久蔵は、単独で敵地に乗り込んで、種子島を一丁奪い取ってくる腕前の持ち主だが、そんな彼でさえ隠れた遠方からの一発で簡単に殺されてしまうというのが、刀一本に生きる侍の哀しさ。それに怒った菊千代が、撃たれながらも相手を斬り殺す、最後の侍根性。こうした、侍と鉄砲という主題は、『ラスト・サムライ』にまで受け継がれていたように思える。また、黒澤自身の後の作品『影武者』にも、この主題を見る事が出来る。(詳しくは『影武者』へのコメントにて)

その人物造形が、「侍とは何か?」という主題の一面を描いている主要キャラに比べて、やや埋没気味な扱いを受けている者もいる。それぞれの初登場では七人の個性が発揮されていたのに、それを物語の中で使ってもらえている者といない者との差が出ているのが残念。七人の侍、というよりは、七人くらいの侍、という印象。

片山五郎兵衛は、人の良いふくよか侍、という点が七郎次とキャラが被るので髭だけで見分けていたが、映画の最後に四つの墓が並ぶ光景を見ながら、彼がいつどう死んだのか思い出せず、微妙な気持ちにさせられた。「薪割り流の使い手」林田平八も面白いキャラなのに、彼もまたそれを活かした場面が無くて可哀相。最後に撃たれて死んだ二人はいいとして、あとの二人はなんだか知らない間に死んでいたような淡白な印象で、むしろ百姓の死の方が鮮烈。犬死のように退場させられるのはいいとしても、犬死なら犬死なりのドラマを感じさせる死に方くらいさせてやってほしかった。

林田平八はまだ、死後のフォローがあったのが救いだ。勘兵衛が平八の死を受けて、五郎兵衛に「苦しい時に重宝する男と言ったな。苦しいのはこれからだが…」という台詞は、戦にあっては人は死ぬべき時でない時に死ぬのだ、というままならなさをも感じさせる。この平八が初の戦死者となった直後の野武士の襲撃で、彼がデザインした旗が菊千代によって藁葺き屋根の上に翻る場面は鳥肌モノだ。また、襲撃時の恒例となる、菊千代の「来やがった来やがった!」という歓喜の叫びは、最初はこの場面での、平八の死に沈む場の空気を奮い立たせる為の、破れかぶれな景気づけなのだ。ここにも、菊千代を単なるお調子者で終わらせない人物造形の細やかさが見られる。そしてこの旗は当然、戦いが全て終わった時にもちゃんとシメに映されている。最初から最後まで、村を戦場とした戦いを見守っているのだ。

男くさい作品の中にあって、女たちの存在も決して薄いものではない。野武士に誘拐されていた利吉の女房は、一言も発しないままに、現れたと思った途端に死んでしまうが、その妖艶さと諦念の交じり合った、暗い色気は印象的。七人の侍と比べても、彼女の存在感に優る者の方が少ない位ではないか。彼女は、利吉に再会したにも関らず火中に身を投げたのではなく、再会してしまったからこそ身を投げた――そんな心情が想像させられるのは、利吉の、利発ではあるが純朴な印象とは余りに不釣合いな狂気を、彼女が感じさせるからだ。演じた島崎雪子は素晴らしい。またこの場面は、利吉が冒頭から野武士への対抗意識を滾らせる動機を窺わせる場面でもある。

志乃の初登場でもある行水シーンは、長髪姿が見られる最初で最後の場面だが、利吉の女房とは逆ベクトル(若さ、健康さ)だがその色気は拮抗している。それを見つめる父親の万造は、何か変な気持ちで娘を凝視しているのではないかと思えてしまう位で、侍に目をつけられるのを恐れた彼が、強引に娘の髪を切って男装させようとする気持ちも、多少は分からなくもない気がしてしまう。村を襲う野武士より、おどおどした偏執的な眼つきで娘を追いかけ回す万造の方が、何となく不気味である。

身寄りの者を野武士に皆殺しにされ「早く死にたい」と呟く婆さまが出てくるのも良かった。皆から重宝がられる知恵袋の長老に比べて、この落差。村の中にも格差というものがある訳だ。この作品で助監督を務めていた廣澤榮の回顧録によると、演じたキクさんは、役者の芝居臭い演技が気に入らなかった黒澤の命で連れて来られた素人。台詞がなかなか呑み込めないので身の上話を聞いていると「東京大空襲で息子夫婦と離れ離れになったまま消息も分からず…」と。「その気持ちを言えばいいんだ」とアドバイスした所、本番でも「B29が」「焼夷弾が」と語りだし、黒澤は「何を仕込んだんだ!」と激怒。結局、表情は出ているからという事で、台詞だけ三好栄子の吹き替えになっているとの事。

因みにこの回顧録によると、当時は東宝争議が終わったばかりで、重役は新規採用を控え、その為にスタッフの三分の一が臨時雇だったという。「『七人の侍』はこういう身分保障もなく収入も少ない臨時雇が主力となってつくったのだ」。身分保障もなく収入も少ない臨時雇、とは、まさに七人の侍そのものではないか。勝四郎は夢見がちなボンボンだから例外かも知れないが。

音声の聞き取り辛さはここのコメントでよく言及されている所だけど、台詞は、デジタル録画したものをヘッドホンで聞いていたが、特に鑑賞に支障をきたす事はなかった。良かった場面について語るとキリが無いのでやめておく。細かい不満点について語ってもやはりキリが無さそうなのだが、それは、面白い展開に発展し得る種が沢山潜んでいる事の裏返しだ。全体が美しいと、粗すら美しくなる。戦闘場面について語るだけでもこの半分位の字数が要りそうで恐ろしい。

(評価:★5)

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