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[コメント] 街のあかり(2006/フィンランド=独=仏)

アキ・カウリスマキ的演出は彼自身にとってさえも困難な妙技であるという事。だが、単純な希望を見出す事は、単純な過程ではない、という事は痛切に伝わってくる。
煽尼采

**ネタバレ注意**
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カウリスマキの表現は、ポーカーフェイスの役者に端的な所作をさせる方法ゆえに、匙加減を誤ると戯画的な紋切型に転じてしまう危険を常に抱えており、それを紙一重でかわして表現の品質を押し上げる所に彼独得の才能がある。主人公が、同僚やバーの女に無視される場面のあからさまさや、失恋した際に流れる歌などのベタな感じなど、下手をすれば四コマ漫画的な省略と誇張に見えかねないが、カウリスマキにかかると、無駄口を叩かず、妙に勿体をつける事もせず、素早く的確に場面を送る妙技となる。一カットの秒数さえも過不足が無く計算されている。

彼の演出を観ていると、黒沢清小津安二郎をテーマとしたシンポジウムに参加した際の発言、「小津の映画はゆっくりしていると人はよく言うが、自分に言わせれば、驚くほど早いという印象がある」を連想させられる。その場面作りの整然とした美しさもまた、小津を思わせるものだ。ただ、カウリスマキはその映像からも生活の匂いが濃く漂ってくる。登場人物達の、ポーカーフェイスだが冷たい無表情ではない、慎ましい顔立ちも、却って、淡々と続く人生の時間性を感じさせてくれる。

ソーセージスタンドの女が、主人公に恋人が出来た事を知ると早々に店仕舞いをして、ガラス戸を閉め、電灯まで消してしまう所など、その分かり易さと徹底ぶりは漫画的ですらある。恋人から別れを告げられた主人公が、無理をして気どったワイングラスに注いでいた酒を、一人にされると瓶で直接飲む場面や、その後、ソーセージスタンドの女の前で同じ飲み方をして瓶を放り投げ、しかもその場所がいつものソーセージスタンドの正面ではなく裏側である所など、主人公とこの女との関係性が明瞭に表されているが、こうした所を指摘したくなるのは、これが映画的な独創性を感じさせるからではなく、むしろ割と常套手段というか基本的テクニックとも思えるような表現が、ミニマルに切り詰められたカウリスマキ的時空間に於いては、その表現力を最大限に高めるからだ。そうして、例えば犬が、道を行く主人公に首を向ける様子さえもが、人生を語っているような錯覚さえ覚えるのだ。

前半までは4点の出来。だが何故か、後半に入ってから、観ていても充分に集中し切れなくなってしまった。マフィアの女に捨てられた時点で、主人公は最低の所まで落ちていたように思え、それに続いて更に落ちていく過程が、平坦に続く絶望にしか見えなかったからかも知れない。カウリスマキ的抑制は、ここで裏目に出た観がある。彼ほどにミニマルに徹すると、微かな違和感が、作品の印象を変えてしまうのだ。心なしか演出の方も、ほんの数秒、数ミリの僅かな加減で、少し弛みが出たように感じたのは錯覚か?

この作品には二つ、ロック音楽が流れる、割と長めの場面があった。一つ目は、主人公とマフィアの女がライヴ会場でデートする場面。喫茶店で彼女に声をかけられた途端に「結婚するか」と言うほど性急なこの映画の中で、二人が同じ一つの時間を過ごした事を感じさせる場面。ここでは最後に主人公は置いてきぼりにされるが、二つ目の、女がトランプをするマフィア達の後ろで掃除をしている場面では、逆に女がほったらかしにされている。時間を共有し合っているのは、女を無視しているマフィアの男達だ。この女の孤独があるからこそ、ラストの、ソーセージスタンドの女と主人公の手が重なる場面の希望が際立つのだ。

(評価:★3)

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