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[コメント] クローバーフィールド HAKAISHA(2008/米)

通常は映画から除外されている、地面、床の固さが、観客の視覚に衝突する臨場感。手持ちカメラの身体性と、CGの、加工され虚構された実写性、正反対の「リアル」の結合。『マトリックス』同様、出来云々とは別に、デジタル時代のリアルを端的に示す映画。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







勿論、ドキュメンタリー性とドラマ性が相殺し合う面が目につくこの作品を、映画として秀逸だなどとは思わない。始終つきまとう、「何でこんな場面を撮ってるんだ」と突っ込みたくなる不自然さ。ロブが、自分が入れていたテープに重ね録りされているのかと気にする場面で、元映像が一瞬映し出される不自然さ。撮影者であるハッドが怪物の一撃を受けて死んだ際にも、その彼が、落ちたカメラの捉える画面にジャストミートで入ってくる不自然さ。最後の最後に現れる元映像の断片で、最後に一緒に死んだらしいロブとベスが「いい一日だった」と穏やかな表情で口にする不自然さ。一応は疑似ドキュメンタリーを志向していた筈なのに、エンドロールで俗っぽい音楽を挿入する不自然さ。「たまたまホームビデオで撮影された映像」という嘘を貫き通す気概に欠けた、演出過剰な不自然さ。小さい怪物が出てくるのも、巨大な怪物ではカバーできない、小回りの利く脅威を用意しようという制作者側の意図丸出しで、その過剰サービスに却って違和感を覚える。

ハッドが幾ら間抜けなお調子者だといっても、あの非常事態で延々とカメラを回し続ける必然性が感じられず、モンスター・パニック映画として成立させる為、という、虚構としての背景が透けて見えるのが残念。「後で報道機関に売りつける」といったような理由があった方が良い。そうすれば、ハッドが目的を果たせないまま死んでしまうという形で、死の唐突さと冷酷さもいっそう際立ったように思うのだが。

だが、最後にロブとベスが自分たちの生きた証しを残そうと、カメラに向かって自己紹介をした時、僕の記憶の中で、序盤のパーティでの、出席者が一人一人、カメラに向かってロブへのメッセージを記録していた場面が甦り、この映画は、登場人物皆殺しの作品である一方、一人一人の存在を丁寧に扱ってもいた事を実感。

序盤のパーティのシークェンスが、三角関係や、旅立ち、恋愛模様など、それらを素材に物語を展開しようと思えばできるような雰囲気で展開させる中での、突然の地響きと停電。この唐突な中断が始まりであるという、不意打ち感。冒頭で、カメラの回収場所として紹介されるセントラルパークに一行が向かおうと口にした時点で、待ち受ける悲劇が予測されるのも、恐怖感を煽ってくれる。電気店に置かれた複数のテレビを介して、上空からのテレビ中継を見せる演出なども巧い。

何より、色々と不自然な点が散見されはするものの、やはり手持ちカメラの臨場感は特筆すべきもの。撮影者の身体を感じさせる主観映像と、人の手を離れた、不動の物としての存在とを往き来するカメラ。眼前の映像を記録するカメラ自体が、映画(=虚構)の世界内に存在する物である事で、観客が映像を観る事そのものが、怪物の脅威に晒される。

直に見、聞き、その場に居合わせる、という、人間にとって最も根源的な筈の「リアル」が、デジタル技術に完璧に結合されているという事。もはやカメラは、人間の脳にとって替わってしまったかのようだ。カメラは、人の手から手へと渡っていき、撮影者の身体性、主観と一体化しながらも、それ自体は何の感情も無く眼前の光景を記録し続けるだけだ。恰も、人間そのものよりも、カメラの方が主体であり、人間はその単なる乗り物にすぎないかのようだ。実際、このカメラは国防省の手で回収されたという事になっており、死んでいった撮影者よりも、その記録の方が生き残る。

怪物は、カメラが意味する「人間の不在」という事態を、目に見える形にする為に出現したとさえ思える。実在するニューヨークという街が、巨大モンスターによる大破壊という虚構によって変貌させられ、街全体が架空の状況として登場人物らを取り巻くという事。しかもそれは、9.11同時多発テロという現実の出来事の記憶をなぞるようにして行なわれているという事。つまりは、映画が現実にとって替わるという事。

(評価:★4)

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