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[コメント] 海外特派員(1940/英)

場所を次々と移しつつ、惜しげもなく披露される視覚的なアイデア。反面、恰も早周り観光旅行の如く、見所を効率よく見せることに特化した皮相さ。功罪併せて実にヒッチ風。彼らしいモチーフも数々登場。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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ヴァン・メア(アルバート・パッサーマン)が語る「鳥」の話は『』の裏返しかと思える。「どんな街にも広場があり、鳥はパンにありつける」――平和の象徴のように語られる鳥が、逆に、突然人間に襲いかかり、黙示録的な光景をもたらしてしまう『鳥』。先に『鳥』を観ていたせいで、ヴァン・メアが穏やかに語る話にも、却って不安を掻き立てられてしまう。

そうした黒々とした世界こそがヒッチの本領なのだ。だから、この作品のラストで、平和と正義の最後の牙城としてアメリカが讃えられるシーンには、アメリカ礼賛そのものよりも、世界観という面で、違和感を覚える。爆撃を受ける中、ラジオ局に最後まで残って訴え続けるジョーンズ(ジョエル・マクリー)と、その傍らのキャロル(ラレイン・デイ)を捉えたショットがフェードアウトしていく黒々とした画で終わる方が賢明だったろう。

画そのものにも、後のヒッチ作品の種が幾つも見つかる。天を突く高さと、天に仕えるシスターを有する塔。武器としてのカメラ。風車の点在する平原の上空を飛行機が旋回する光景。ジョーンズが、ホテルの外側をつたって脱出するシーンでの、高さのサスペンス。

暗殺方法のアイデアは、コッポラも後に模倣している。またこの偽装暗殺シーン、階段や、群がる無数の傘といった視覚的要素の鮮やかさもさることながら、路面電車や馬車などが往き来する雑然とした光景をまず提示することで、衆目の中で行なわれる、装われた暗殺劇としての意味合いもより強めている。ホテルからの脱出シーンで、ジョーンズがつかんだネオンがショートして切れる演出なども巧い。風車小屋での、回転する巨大な歯車に取り囲まれたシチュエーションをサスペンスとして活かすシーン作りも面白く、終盤に至っても、海上からの砲撃を、飛行機の窓越しに捉えたカットなども迫力があるし、空々しい芝居によって通信社に電話でレポートを送るシーンの可笑しみなども微笑ましい。

だが、ジョーンズとキャロルが恋に落ちる展開の唐突さなどに典型的な、人物の記号的な処理は気になる。キャロルの父・フィッシャー(ハーバート・マーシャル)は、黒幕でありながら単純な悪でもない、微妙な陰影を有する人物ではあるのだが、二転三転する彼の人物像もまた、全篇に渡って次々と所を変えていくシチュエーション同様に、プロットを意外な形で転がす一要素以上のものとはならない。そうした、所謂「観客を飽きさせないアイデア」が矢継ぎ早に提示される反面、「ハイ、これを見て驚いて、次はこれ」といった調子で提示されるだけなので、却って飽きる。映画全篇を通じて、時間と共に熟成される何ものかが欠けている。

これが例えばイーストウッドならば、主人公が或る女性と幾つかの場面を共にしていく中で、彼女との関係の密度を高め、それに伴って観客の方でも、彼女が、登場当初とはまるで違う、かけがえのない存在として映じるようになる。そうした時間性というものが、ヒッチにはまるで乏しい。キャロルは「ジョーンズとの幾つかの行き違いを経つつもカップルとして成立する女性」というポジションが、最初から前提とされている記号的な存在以上のものではない。観客はキャロルのことを、特に好きにも嫌いにもならないままその役割を受容するだけだ。何もイーストウッドのように見事に描いてくれと言うつもりもないし、そもそもヒッチの目指している方向とは何の関係もないのだろうが、最低限度の人物造形は、見事なスペクタクルとして成立させる為にも必要だったはず。

唯一、囚われの身のヴァン・メアが、ベッドに横になりながら犯人たちを見つめる主観ショットは、闇の中に浮かび上がる男たちの姿に、単なる記号を超えた狂気の片鱗を見ることが出来る。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)赤い戦車[*]

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