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[コメント] しあわせのかおり 幸福的馨香(2008/日)

この平凡さこそ愛すべきもの。貴子の台詞、「ワンさんの味は、飽きがこないのよ」の通り、この映画も上品、丁寧、奇を衒わない、万人向けのもの。地味で手堅い職人技が好ましい。だが調理シーンは、意外にも映画的なスペクタクル。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







物語そのものは地味なのだが、映画館で観る料理という物がこれほどスペクタクルなものなのかと、意外な感動を覚えた。調理する人物の真剣な表情と、その眼差しの先にある、俎板の上や、鍋の中の料理、この両方が交互にクローズアップされる調理シーン。この映画に於いては、料理は人物と殆ど同等の比重を占めている。

ボッ、という音と共に大きなスクリーン一杯に燃えるコンロの炎。黒い鍋の中を転がされて踊る卵の黄身と白身の色模様。料理人の微妙な指捌きに揉まれて形を成していくシュウマイの衣。俎板の上でリズミカルに刻まれていく野菜。挽き肉を、長方形をした中華包丁で叩く音の、律動的なリズム。鍋の中で油が熱せられて弾ける大音響。完成した料理が「はい、お待ちどう」とテーブルに置かれた時の、ぷるんと震えるシュウマイや、左右に波打つスープ。眼と耳への刺激がそのまま感触的なものとなる。映像で観る料理は決して食べる事は出来ない分、その「美味しそう」な印象が観客の脳裏にじわっと沁みこんでいく。

料理は映画と相性がいい。それは一つの抽象的かつ全身的なドラマであり音楽であり、宇宙である――大袈裟に言えば。貴子が慣れない中華包丁に戸惑ったり、重い鍋を使いこなせずに悪戦苦闘したり、腕まくりをするとワンさんに「腕まくりは禁物です。油が跳んで火傷します」と注意されたりと、一種の格闘技、アクションシーンとしての調理、という面もある。

映画は、登場人物の心境も、基本的には全て映像で見せる必要があるので、何らかの行動やシチュエーションに巧く置き換えて演出する必要がある。そんな事はここで改めて言うほどの事もない基本的な技術に過ぎないのだが、むしろそうした当然の職人技、料理人が毎日同じような手つきでシュウマイを形作ったり、火の通りを均等にする為に食材を均一に切ったりするような、目立たない、新奇でも何でもない所作が、場面作りそのものに感じられるのが、特にこうした作品の場合は大切な事だ。

例えば、貴子が会社を辞めてワンさんの所へ弟子入り志願に来る場面。一旦は断られて、店の扉をピシャリと閉められた彼女が、諦め顔で電車の席に座っていると、ワンさんが、麻痺した体を必死で動かして追いかけてきたのが見える。貴子は、電車が発車する直前にその姿を見つけて彼の許へ駆け寄り、弟子入りを許される。ここでの、貴子が電車を待って、それに乗り、ただ座っているそのタイミングや間のとり方でも、下手な演出家だと間違えてしまうもの。これは間違えないのが当然なのだが、何かこの映画を観ていると、当然が当然として行われている職人技が、妙に光って見えてくるのだ。

ワンさんの歩きの場面としては、食中毒事件が起こったせいで、貴子が意識障害を再発し、娘とも別れて一人閉じこもっている所へ、彼が訪ねて来る場面がある。ここで、貴子が住む家が坂道の途中にあり、そこをワンさんが懸命に登るからこそ、彼が貴子を大事に思っている心情が伝わってくる訳だ。何だかこんな事を改めて指摘するのも気恥ずかしいのだけど、つい言いたくなってしまう作風なのですよ。この貴子の家の中で二人が向かい合うシーンでは、貴子の背後には、不在の娘が描いたと思しき絵が飾られていて、ワンさんの背後には、台所、つまり料理をする場所が映されている。そうして、貴子が失いかけている二つの大切なものが可視化されている。

貴子の娘は、全く目立たない存在なのだが、貴子を見えない所で支える存在でもある。それが分かるのは、まず、ワンさんの味に惹かれつつある貴子が夜中に起きだして、手探りで自己流に中華料理を作ってみる場面。当然、失敗して、しかも大量に作りすぎたせいで途方に暮れてしまう貴子。娘も起きてきたので、一切れ食べさせてやると、「美味しくない」。「美味しくないねぇ」と言う貴子に、「でも、お母さんが作ったのが、一番好き」。貴子は、ワンさんに弟子入りするにしても、特に腕に自信があるといった様子でもないのだが、この娘の信頼があるからこそ、敢えて未知の領域へ飛び込んだように思える。その証拠に、と言うべきか、彼女がワンさんの店で修行を始める場面では、背後に、お絵かきをする娘の姿が映っているのだ。貴子の手捌きを見たワンさんも、「さすがお母さんです」と取り敢えずは褒めていたりもする。

貴子と娘との関係は、特に掘り下げられている訳ではなく、殆ど「純粋な子供」という記号のようではある。また、貴子に密かに惹かれているらしい青年にしても、その他の人間関係にしても、どれも薄味ではあるのだが、そうした所が変に濃厚にならずに抑えられているおかげもあって、料理が心置きなく美味しそうに見えるのではないだろうか。貴子が最後に料理人として本格デビューする食事会は、娘の母親としてちゃんとやっていけるのか、を甲本雅裕が視察に来ている事による緊迫感も無い訳ではないが、彼の、人の良さそうな人物設定も相俟って、食事の味も分からなくなるような緊張感にまで至っていない。むしろ、彼が生唾を飲み込んで見守っている事で、料理の美味しそうな印象を強めるスパイスとなっている。

また、食中毒事件が起こる場面では、実際に料理を口にしている映像が無い。小上海飯店の常連客の会話と、彼らが手にしている新聞記事による事後的な描写にとどめている。これは、食事の場面にマイナスの印象が付いてしまわないようにする配慮だろう。この辺の細かい匙加減によって、安心して観ていられる映画になり得ている。

娘、と言えば、ワンさんにとってもいつしか貴子は娘のような存在になっていく訳だが、それが明言される、上海への帰郷の場面では、ワンさんが皆に「私の自慢の娘です」と中国語で紹介するその場では貴子にその言葉が伝わらず、彼女が通訳に訊ねようとした所で箸が落ちてそれを拾う、という形で流される。ワンさんが貴子に、自分の母親が、夫が病に臥せっていたので、一人で一生懸命働いて彼の学費を工面し、毎日食事を作ってくれた、という話をし、ワンさんの背負ってきた人生が一通り分かった所で、日本への帰国の直前に、通訳の口から、ワンさんの「自慢の娘です」という言葉が貴子に伝えられる。その事で、貴子とワンさんの関係は、単なる師弟関係でもなければ、代償行為的な甘い擬似親子関係でもなく、料理を作る、という行為を通しての、師弟以上の絆になる。

ワンさんにとって貴子は、娘のような存在でもあるが、シングルマザーとして娘を育てるという意味で、ワンさんの母親とも重なる。まだ百貨店の社員である貴子とワンさんが偶然に病院で出会う場面では、貴子は娘を診察してもらいに来ており、ワンさんはこの病院で、「もう調理のような激しい運動は無理です」と告げられるのだ。

こうして、職人として料理を作るという行為に、親子の情が凝縮されているからこそ、最後の貴子の調理シーンが、何か派手なパーティなどでの料理人デビューなどではなく、これから結婚する若い男女とその家族の会食という、慎ましいシチュエーションである事に意味がある。結婚、という事は、新しい家族が一つ出来る、という事でもある。それを祝う食事会を任せられ、立派に務め上げるという事は、この物語に於いては最も重要な事になる訳だ。

無事に食事会が終わり、音大出のお嫁さんが歌を披露する場面には、観ているこっちが照れてしまいそうになる唐突さも無くはないが、何かの技術を、訓練の末に身につける、という事への讃歌のようにも聞こえてくるし、またその歌は、メロディだけは耳に馴染んだ、「憩いのわが家」を歌う曲なのだ。この店内の、シンプルな、広くもないが清潔な、慎ましい雰囲気も良い。窓ガラスの夜の暗さと、食卓の親密な明るさ。食事会も終わって、お客が帰る所では、外で雪が降っており、この事が逆に、店内の暖かさを感じさせる。

思えば、貴子が最初はその勤める百貨店への出店を依頼する為に小上海飯店を訪ねて来たのも、ワンさんの腕が、そうした依頼が来るほどのものであると印象づける意味があったのは勿論だが、それに加えて、百貨店のような大きな場所ではない、小さな場所で営まれる行為の、凝縮された味わいを際立たせる意味もあった筈。ワンさんの味に魅了されていく貴子と、経営の論理によって小上海飯店への依頼を諦めて別の店に目を向ける上司たち。

貴子とワンさんが、厨房で、黙って酒を酌み交わす静かなラストの、品性ある余韻。こうした、地味だが滋味ある良心的な作品が、邦画に年に一本くらいは無ければ寂しいだろうと思う。中谷美紀藤竜也の演技力が無ければ途端に陳腐な話になりかねない所はあるのだが、当然の映画的工夫をきちんとする作り方さえ出来ずに映画を撮る者もいる中、また、最低限度の演技力すら持ち合わせずにスクリーンに顔を出す者も多い中、この手堅さは美しい。

(評価:★3)

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