コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] ダウト あるカトリック学校で(2008/米)

観客に「第三者」の客観性を与えぬことと、絶対の「第三者」である筈の、神と教会。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







フリン神父(フィリップ・シーモア・ホフマン)が、清潔にしていれば許されると言って爪を伸ばす行為に、自分なりの「開かれた」解釈によって規則を踏み越える態度が端的に表されている点や、ティーカップに砂糖を三つ投じる、煙草を吸う、校長室のドアを閉じる(男女が同室する際の規則なのか、僅かに開けておく決まりのようだ)、校長であるシスター・アロイシス(メリル・ストリープ)が「異教的」と見做すポピュラーソングを好む、アロイシス曰く「猿のような筆跡になる」ボールペンを使用する、等の些細な点が、フリンに対する「Doubt(疑い)」を増す仕掛けによって、カトリック学校という閉鎖的な環境がよく演出されている。

それら細部のみならず、全篇を貫く軸として、アロイシスが闘うことになる時代の変化と試練の暗喩としての、「風」による演出も見逃せない。風で落ちた枝のせいで、目を悪くしている老シスターが躓いて怪我をするシーンでの「世界の終わりね」と呟くアロイシス。彼女が黒人少年ドナルド(ジョセフ・フォスター二世)の母親(ヴィオラ・デイヴィス)と歩きながら話すシーンの最後に、強い風に吹かれること。若い女教師・シスター・ジェイムズ(エイミー・アダムス)と教室で会話するシーンでは、風の侵入を防ごうと窓を閉めるが、この動作はアロイシスの、時代の変化に抗する闘いを、具体的なアクションとして示すものだ。だから、フリンと校長室で一対一で対決するシーンでは、「誰が窓を開けたの」と窓を閉める行為が、言わば彼女の宣戦布告なのだ。教室のシーンでは窓の下に、フリンと、ウィリアム・ロンドンという生徒と思しき人影を見つけたアロイシスは、不審がる様子を見せるが、校長室の対決でも、疑いの根拠として挙げるのは、校長室の窓から見たという、フリンがウィリアムの腕を掴み、相手がそれを振り払った光景。そしてフリンの最後の説教も、運命を「風」に喩えた話。アロイシスは風に抗っていたが、フリンは風に流される存在のようだ。

「風」の他に気がつくのは、「光」だ。フリンが校長室でお茶をしながら詰問されるシーンでは、彼が退出した後、アロイシスの疑いに反論するジェイムズの頭上で電球が切れ、アロイシスはジェイムズのせいでそうなったかのように言うのだが、この、冗談とも言いがかりともつかない台詞は、後にアロイシスが同じ校長室でフリンと対決するシーンでも、彼に対して繰り返されることになる。電球は、交換したばかりなのにも関わらず、切れてしまう。アロイシスが交換していたとき、ちょうどドナルドの母が訪ねてきていたことや、電球が切れた際の一瞬の光と、フリンとの対決に於ける雷の光など、意味ありげな演出が施されているようにも見えるが、妙な深読みは不要だろう。ただ、校長室でのお茶付き尋問シーンでも、窓から射し込む光をフリンが眩しがる様が、恰もアロイシスが神の光によって彼を攻撃しているかのようだった。してみれば、この二人が校長室で対決するシーンで、嵐と稲光とが現れているのは、光と風の同居という両義的な場面構成であったということにもなるのだろう。

本作に於いて、両義的で、意味が定まらないのは、「善悪」と「事実」。或る授業シーンでは、教科書を忘れた生徒に、隣の生徒に見せてもらうようジェイムズが言うと、「息が臭い」と不平を返され、ジェイムズは慌てて、彼の息は臭くないと言い返す。その反論は事実の訂正というよりは、「臭い」とされた生徒がクラスの笑いものにされるのを防ごうと反射的に口にした言葉という印象だ。その一方ジェイムズは、司祭館から帰ったドナルドの息が酒臭かったことは正しく指摘してもいる。この少年がミサ用のブドウ酒を口にしたことは第三者の証言によって裏づけられるのだが、アロイシスが終盤でフリンと対決するシーンでも、最初、「第三者がいなくては」と彼女は口にする。だが校長室の扉も閉められ、完全に一対一の対決となる。そこでアロイシスは、「貴方が前に勤めていた学校のシスターに聞いた」と、嘘の第三者を立てることで、彼から取り敢えずの勝ちを奪うのだ。

「第三者」といえば、ジェイムズが、司祭館から帰ったドナルドの様子が妙だったという証言も、当該のシーンではドナルドの姿はジェイムズの陰に隠れて、観客の目に触れることはない。また、鼻血が出たと言って“忠誠の誓い”を抜けた生徒が煙草を吸うシーンがあるが、これもアロイシスの推察通りにわざと鼻血を出したのかどうかは観客にも分からない。ただ鼻血を布で拭った彼が笑みを浮かべて煙草を吸う、という行為によって、アロイシスの推測は恐らく正しいだろうと感じさせられる――ただそれだけのことで、証拠は無い。観客を「第三者」という特権的な位置に立たせないよう配慮された演出によって、我々はアロイシスとジェイムズの「疑い」を共有せざるを得なくなる。絶対的な「第三者」である筈の神は、何も保証してくれない。アロイシスによる、嘘の第三者を根拠にしたフリンへの反撃は、その行為自体が、彼女の信じていた神の不在を証ししている。

アロイシスは、「神の意に沿う為には、時には神から遠ざかることも必要」と言うが、その理屈に従えば、必ずしもフリンは絶対悪とは見做せないことにもなるだろう。たとえダニエルとフリンが性的な関係を持っていたとしても、少年の母の言葉が正しければ、周囲から孤立した少年自身が、それを救いとして望んでいたのだから。アロイシスもまた、老シスターを気遣って、目が悪いことが分かったら施設に入れられるからと、嘘をつくことで規則をかわそうとしてもいた。フリンが、自分たちは信者たちの家族であるべきだというのに対し、アロイシスは反論するが、その一方、どうやらジェイムズを、重病の兄(=家族)の許へ行かせてやっていたようだ。ジェイムズが兄の容態を知らせる手紙を手にしているシーンで、ジェイムズ自身は、「生徒たちがいますから」とフリンに告げていたのだが。そのシーンでフリンは「聖書の教えは『愛』だ」と主張していたが、アロイシスもその「愛」を持ち合わせていないわけではないのだ。

ラストシーンでは、それまでアロイシスが鉄面皮の下に押し込めていた感情が一気に溢れ出たように涙を見せるのだが、そのときに彼女が口にする「疑い」とは何か。ジェイムズが、悪さをした生徒を校長室に寄越さないことについてアロイシスは「命令系統を活用しなさい」と言っていたが、その「命令系統」の順序は、校長室の対決シーンでは、前の赴任先のことを引き合いに出されたフリンによって「シスターではなく主任司祭に訊く規則だ」という形で主張されていた。結局、退任した彼は「命令系統」によって、新たな赴任先で主任司祭に就く。アロイシスの中で、教会という組織への信頼が揺らいだことは容易に見てとれる。だが、彼女がジェイムズに、黒板に向かいながらも生徒らの様子が見られるようにと、ガラス入りの写真を飾るよう忠告するシーンに於いても既に、ジェイムズの「この教皇は亡くなっています」に対し「どの教皇でもいいのです」と答えたアロイシスの中では、教会への不信が芽生えていたのではないか。

組織への疑問と、神への信仰の揺らぎが絡む合う点で、カトリックに材をとったのは適切だったのかもしれない。だが、観客は本作のような映画を観るとつい「これはカトリック以外の社会の規範と規則にも当てはまる」と解釈しがちだが、ひょっとしたらそれは、観客として親切に過ぎるのかもしれない。この映画で描かれたような閉鎖性や厳格さは、テーマを強調する役割を果たしているのだ、と弁護したい気にもさせられるが、、神という絶対的な超越性が規範・規則の背景に想定されている点で、やはりこれは特殊な状況のように思える。僕らの暮らす社会は、もっと曖昧な根拠に支えられていて、曖昧であるが故に、その無根拠さについて「疑い」という明確な意識によって向かい合うことの困難さがある筈なのだ。つまり、カトリック学校という舞台背景は、作劇の難易度を下げる反面、テーマの普遍性を幾らか減じ、最も困難なテーマを回避させてもいるように思える。

(評価:★3)

投票

このコメントを気に入った人達 (1 人)Orpheus

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。