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[コメント] ハゲタカ(2009/日)

ドラマのファンとして贔屓目に見てしまう面はあるが、ドラマを観ていたからこそ、鷲津の心情が伝わりにくい演出には不満。ドラマではウェットな部分は芝野が担っていたが、今回は劉が殆ど全部持っていってしまった観がある。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
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ドラマ版では、ポーカーフェイスを装う鷲津(大森南朋)に対し、芝野(柴田恭兵)のウェットさが補完的な役割を果たしていた。その、捨てられた犬のような、寂しげで今にも泣き出しそうな顔と、呟くような、低く、震える声。他の登場人物が、怒りや焦り、絶望といった感情を爆発的に露わにする中、芝野は、静かに、心の底からの哀しみを溢れさせることで、『ハゲタカ』というドラマに、情感の深みを与えていた。

そうした、影の主役とも呼ぶべき立場は、今回は劉(玉山鉄二)が担っている。彼が、「誰でもいい」交換可能な部品として扱われる派遣社員・守山(高良健吾)に向かって説く「誰かになるんだ」という言葉が、劉自身が「別の誰かになりすます」という贋物のアイデンティティーを得ていた事実を暗示する言葉へと変貌してしまう哀しみ。守山に、手切れ金である紙幣を拾えと強いていた劉が、唐突に強盗に襲われるシーンでの、雨に濡れた泥に塗れる紙幣と、小さな硬貨の白い輝き。鷲津が訪ねた劉の生家の壁に残されていた車の絵は、アカマの車の鮮やかな赤を塗るためのクレヨンが無くて、間に合わせのオレンジ色で塗ったように見える。

守山とレストランで食事する劉の、クールな外見に似合わぬがっつき方。守山に対して吐く「面白いね、君。他人を疑いながらも、出されたコーヒーは遠慮なく飲む」という台詞。鷲津のようなクールさの陰に、貪欲さと、その更に裏にある哀感とを秘めた劉のキャラクターは、複雑な陰影によって造形されている。

ドラマ版では鷲津は、芝野が語った、金融に携わるものの直面せざるを得ない冷厳な真実を告げる言葉によって、鷲津自身が冷厳な男へと変貌して日本に戻ってくる。その鷲津が今回、冷厳な男へと変貌しつつあった頃の自分の分身のような劉と対決することになるのも、必然なのかもしれない。だが、その鷲津の内面は、クールな表情の内に隠されすぎていて、観客の目からはなかなか窺い知ることができない。そのせいで、今回は劉が、陰の主役というより、真の主役の座を奪ってしまっている。鷲津の姿は、その陰、狂言回しのようにさえ映じてしまう。

リアルタイムで変動し続ける経済情勢に合わせた脚本変更をも含む、時間を追いつつ時間に追われる制作スタイルがとられたせいか、サブプライムや派遣切りの問題を取り入れた箇所が、やや雑な扱いを受けているように思える。派遣社員たちの抗議の動きは、もう少し丁寧に描いてほしかった。前振りらしいものも無く、突然デモ決行の場面になり、しかもすぐさま事前に鎮圧されてしまうという展開の早さのせいで、守山の挫折感がいまひとつ伝わらない。

ブルー・ウォールを迎え撃つ鷲津らが、敵の予想外の資金力に動揺する場面は、観客の方では冒頭の場面に於いて、背後に中国の国家ファンドが控えていることが推察できるようになっているので、分かりきった事態の中での出来事の推移を見守る立場に置かれてしまい、この点でも鷲津に感情移入がし辛い。鷲津が、サブプライム問題を逆手にとって逆転を狙う策略も、具体的にそれが展開する直前に彼自身の言葉で全ての筋書きが語られたネタバレ状態にされてしまい、やや臨場感に欠ける。鷲津の台詞は、スタンリー・ブラザースの株価が急降下するのと同時進行になるように編集する方が無難だっただろう。尤も、或いは金融資本主義の最期を鷲津が看取るシーンとしての静謐さを求めた結果なのかもしれないが。

事態が大きく動くのに応じて、それを報じる新聞がキオスクで買われていくシーンが、確か三回ほどあったが、毎回、客が払う硬貨の鳴る音が挿入されていた。先述した、劉の最期のシーンにしてもそうなのだが、小銭のひとつひとつが積み重なって大金となっている、ということに意識的な、小銭を丁寧に扱う演出姿勢は、ドラマ版から継承された美点だ。ドラマ版では、鷲津が飲食代を一円単位で計算する台詞や、金のやり繰りに行き詰まった債務者が小銭をかき集める、といったシーンが、特に印象的だった。

本作では、劉が守山に手切れ金を渡そうとし、札束を床にぶちまけた守山にそれを拾わせるシーンが、劉の最期のシーンにも並ぶほどの修羅の様相を呈している。パンフレットによるとこのシーンは、演じる二人のアドリブに任されていたそうだが、その甲斐あってか、守山が紙幣を拾うか拾うまいか逡巡する様と、拾えと命じる劉の心理的な格闘が、カネと人の葛藤という、本作の根っこの部分を剥き出しにしている。

ドラマ版は、外資から派遣された鷲津が、微温的な日本の体質を叩く黒船として登場する。つまり、日本人自身が、日本を覚醒させる外圧として現れるという、屈折したナショナルな意識が表れていた。そこでは黒船として大きな存在感を示していた外資が、今回は中国の手先となった挙句、最後は自らの欺瞞によって崩壊させられてしまう。映画版もまた、ナショナルな闘いという裏テーマを含んではいるが、鷲津の資金源として登場するドバイには、世界市場に於ける一個の主体としてのリアリティがいまひとつ乏しく、ややデウス・エクス・マキナ的な助っ人に見えてしまう。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)YO--CHAN ハム[*]

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