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[コメント] ユキとニナ(2009/仏=日)

なにより、ユキを演じたノエ・サンピの美しさ。単に綺麗な子だというだけではなく、日仏双方の血を引いている容姿が、日仏の言語を軽やかに越境する様と相俟って、それこそ「愛の妖精」のような透明感で障壁を越えていくことの美しさ。
煽尼采

**ネタバレ注意**
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それゆえ、ユキが森で一人、奥へと歩いていき、「かわいい小屋を作って暮らすわ」と、童話的な夢想を語りながら躊躇いなく歩を進めるシーンは、彼女が死の可能性にすら、知らぬうちに身を浸している痛々しさによって、更にその透明度を増す。森の奥という絶対的な孤独へ向かっているはずのユキが、森を抜けて、日本の情景へと足を踏み入れるシーンは、そもそもユキは彼岸へと向かっていたので、その唐突さも含めて、ファンタジーとしての必然性をもたらす。それに、このシーンでの日本が、ユキの母の幼少時代と重なることは、映画のラスト・シークェンスでようやく判明することであり、ユキが老婆の家で友達と遊ぶシーンが展開しているその時点では、映画がいつの間にか「母の意向に沿って日本へ共に渡ったユキ」のシーンに移っているとも解釈できる。つまり、そもそも「映画」というものは、時空をあっけなく繋いでしまうファンタジックな装置でもある。その、唐突かつさり気ない移行は、日本の怪異譚を思わせる、淡い不可思議さを漂わす。また、遠く離れているはずの日本とフランスの森が、映像として、ひとつの森として自然に繋がってしまうということ自体が、隔たりというものは本当は存在しないものなのではないかと感じさせもする。

一見すると、題名に反して「ニナ」の存在感が幾らか薄い印象すら抱いてしまうが、それはユキの存在感が特権的に輝いていたせいでもあるだろう。それに、日仏両国を、また、フランス人の父と日本人の母の対立を越境するのが主題の本作にあっては、フランスに馴染みきっていて、越境の必要さえ感じていないフランス人少女ニナは、どうしても埋没してしまう面がある。だが、作品の半分以上が、子供同士の遊びのシーンで占められている本作にあっては、遊び友達のニナの存在は不可欠なものだ。遊びのシーンで占められているというのは、つまりは子供の目線、子供の論理、子供の感性を軸として回る世界観が構築されているということでもある。二人の家出のシークェンスが、ユキの父と遭遇しそうになったり、ニナの父の隣人に見つかりそうになったりして、身を隠す二人の姿を描いていたのも、大人の都合で事態が否応なく動いてしまう世界から離脱する、妖精的な子供の世界を成立させるための工夫だろう。「愛の妖精」からの手紙を投函するシーンでも二人は、見つからないようにと足早にその場を去っていた。

エンドロールの「てぃんさぐぬ花」(歌っているのはUAらしい)は、童話的な雰囲気や、親子の情愛を歌った内容に惹かれた諏訪監督によって選ばれたというが、沖縄の方言で歌われることで、「日本」の内なる差異を言葉という形で表している点もまた、ユキによる言語的越境が大きな意味を持つ本作にとって、ラストに相応しいように思える。差異は、つまり越境の可能性は、「日本」や「フランス」といった国境線上にばかりあるのではなく、いたる場所に遍在するものなのだ。

この選曲の「腑に落ちる唐突さ」は、ユキが森を抜けたら日本、のシーンのそれとも相通ずる。本作の、いつもの諏訪敦彦かと思いきや、ふわりと別次元にシフトする作風は、ユキが森を抜けるシーンで決定的なものとなった。このシーンによって、少女たちの空想、活発なアクションと会話、ユキの静謐で幼い表情など、全てが、日常から僅かに浮上したファンタジーへと結実していく。ファンタジーという点では、『パリ、ジュテーム』の第8話・2区「ヴィクトワール広場」で芽生えが見られたが、ひとつの見事な着地点を見つけた感がある。

(評価:★4)

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