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[コメント] インビクタス 負けざる者たち(2009/米)

「嘘のような実話」という基盤に支えられた、無重力的な多幸感。終盤に至るまでの確固たる演出と、アメフトに於ける肉体の衝突の重みが確かな手応えを担保してはいるが、それら全てを一気に無重力化する予定調和。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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モーガン・フリーマンの身体を、フィクションとしての「ネルソン・マンデラ」という人格として観客に了解させることもなく、冒頭から唐突に、『フォレスト・ガンプ』風な擬似ニュース映像として画質も編集も調整された画にいきなりフリーマンを放り込む無造作さ。こうした衒いの無さ、単純素朴さで「映画」を最初から信じきった様子を見せる監督クリント・イーストウッドの無防備。これを貫禄と言うべきか、計算の欠如と言うべきか。ニュース映像に挿入されたリポーターの声が「彼は自由な人間(フリーマン)として…」という台詞を吐いた瞬間、僕のように物事を斜めから見がちな観客は、素に返って可笑しくなってしまう。こうした、映画を信じきった男としてのイーストウッドの姿勢は最後まで、いやむしろ、終盤になればなるほど顕著になる。

こうしたイーストウッドの信仰心は、本作の題材であるアメフトの扱いにも表れている。あれほどまでに丁寧に描き積み上げてきた「人種間の緊張関係」という空気を、アメフトへの人々の熱狂によって、恰も炎天下のアイスクリームのように、簡単に溶かし去ってしまうのだ。

夜のジョギングシーンに於ける、怪しい車輌の接近が実は新聞配達員に過ぎないというオチや、決勝戦でスタジアムの上空を低空飛行する謎の航空機が、機体の底部のメッセージを見せる為の悪戯に過ぎないという肩透かしなど、いかにも映画的なサスペンスを醸成しながら、拍子抜けするほど簡単にその緊迫感をポイ捨てする演出には、映画的なるものを自在に操りながらも執着しない貫禄を感じさせてはくれる。低空飛行シーンは実際には、劇中で描かれたように予定外の出来事として緊迫した状況を生じさせたわけではないらしいのだが、そこはイーストウッドの茶目っ気ということなのだろうか。或いは、9.11を連想させる緊張感を生じさせて後の観衆の歓呼の声、という形で、テロル(恐怖)によるアピールへのアンチテーゼを匂わせたと見ることも出来る。テロルによるアピールと対照的な、アメフトへの国民の熱狂や、マンデラの温和な姿勢。北風に対する太陽のような、心のアピール。尤も、あの低空飛行シーンは、なまじサスペンス演出が成功している分、単なる迷惑行為という印象の方が強いのだが。

マンデラが、国民的英雄としての道を歩んでいくのと対照的に、家族との関係が冷え切っているという点は、これまたイーストウッドらしい視点だが、実在の人物を扱っているせいか、この秘められた孤独が映画的パッションの醸成に寄与することはない。一滴の苦味を加えてはいるものの、作品全体に於いては瑣末なエピソード域を出ない。

観客席の白人達から投げられるブーイングにも嫌な顔一つせずににこやかな表情で手を振るマンデラ。自らに向けられた、異物を見るような視線に耐えてそこに在る、という、シンプルかつ根源的な闘い。これは紛れも無く『グラン・トリノ』から継承されたものであり、その闘いの渦中に身を投じるマンデラの崇高さに一気に惹きつけられる。だが白人達との雪解けがあまりにも楽天的かつ自明な展開として描かれすぎているせいで、実話ベースでありながら「映画のような嘘」が浮上してくることの、奇妙な驚き。実話の重みよりもむしろ、「映画」に対するイーストウッドの信仰心こそが印象づけられる。その無垢さにはちょっと、置いてきぼりにされた気分も覚えるが。

尤も、仮にイーストウッドが僕の眼前に立ち、「暴力の行き着く先についてはこれまでの作品でひと通りの解答を提出したつもりだ。今回は肩の力を抜いて、“生”に溢れた映画を撮ってみたんだよ」などと口にしたとすれば、「そうなんですか」と素直に頷いてしまいそうな気持ちも無くはない。実際、フリーマン=マンデラの吸引力と深みとは、積年の苦闘の果てに彼が見せる「肩の力が抜けている」という一点に集約されているとも言えるのだ。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)ハム[*] けにろん[*]

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